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私たちがキャンを見つめる時、キャンもまた私たちを見つめているのだ

本日は、どうぞよろしくお願いしますね。
私はキャンの友人のような者でして、都内のとある会社に勤めている、ごく普通の真面目なサラリーマンにございます。
え、私が初めてキャンに遭った時ですか?
あれは、私が20歳の頃でしたでしょうか。もう10年が経ちますね。
キャンのことをこのような形で人様にご説明差し上げるのは、あなたが初めてでして、一体何をお話しすればよろしいのか見当もつきませんが、ここは一つ、私の独り語りのような体を取らせて頂こうと思います。
その方が私も、気を張らなくて済みますから。

キャンと云う者は、とにかく自分のやりたいことをやりたい、という性質があるように思います。
10年前から「会社で働きたくない」、「人と人を繋ぎたい」ということを言っておりました。
ええ、今のキャンの在り様がまさにそうですね。
しかし、今に至るまでは、出版社でパートタイムをしたり、人材紹介業の営業をしてみたりと、紆余曲折があったようです。
そう云った賃金労働者的な暮らしが性に合わなかったのでしょう。
早々に足を洗い、バーを開くに至ったのを見ると、手前がやりたいことをしたいのだなと、強い意志を感じました。
他にも、すぐに懐が寂しくなることを見かねた当時の恋人と共に、「サバイバルきゃんチャレンジ」なるものを試みておりましたが、この記事を読むと、金銭の勘定と言いますか、そう云った細々としたことを相当やりたくないのだなと云うことが伝わってきます。
やりたい、やりたくない、そう云う気持ちが人よりも強い性分なのでしょう。
それが、あれをキャンたらしめている一つの要素のように思われます。

ええ。はい。まあ、そうかもしれない。
つまりあなたは、ただ怠惰なだけではないかと、仰りたいのでしょう。
そういった気持ちも分からないでは無いのです。
以前は私もさう思っておりました。
しかし、キャンと云う者は、私たちとは少し異なる理(ことわり)のもとで、生きているのでございますよ。
もう少しお話申し上げましょうか。

キャンについて次に心に浮かぶのは、そう言った自分のありように対して悩む姿でございましょうか。
どなただったか、「キャンは空っぽだ」と言った方がいらっしゃいました。
空っぽとはどう言う意味か。
そうですね、私も仔細は存じ上げないのですが、聞くに、他人のアドヴァイスに対して聞く耳を持たない、聞いても心に響かない、という意味で言われたようでした。
一方キャンは、それに対してどうすれば良いのかをしばらく悩んでおりました。
「空っぽ」とは自分のどう云う処を指しているのか。
「空っぽ」でなくするにはどうすれば良いのか。
一生懸命に、考えておりました。
理解出来ない、と云う訳ではありません。
曲がりなりにも早稲田大を卒業しておりますから、情報処理能力には秀でているのでございます。
それに加え、外面はふにゃふにゃとした緩い雰囲気がありますので、人様は色々とアドヴァイスしたくなるのでしょう。
しかしですね、先ほど申し上げたやうに、キャンと云う者は、人とは異なる理のもとで生きているのです。
あのふにゃふにゃの面の下には、強情なモノが居るのでございます。
そうと知らずに、キャンをどうにか変えようとすると、キャン自身を含め「アレッ」となる。
山道で塗り壁に遭ってしまったようなものですよ。
押しても引いても、ビクともしないのです。
私が申し上げたいのはつまり、キャンの中には、人の力では制御出来ない、「何か」が居る、と云うことなのでございます。

何かとは何か、それは私も見たことは無いので、説明は難しいのです。
でも、あそこに居ることは分かる。

あれ、もうこんな時間でしたか。
長々とお話して申し訳ございません。
最後に一つ、キャンの良い処についてもお話しさせて下さい。
ここで終わってしまったらキャンが妖怪か何かみたいに聞こえてしまいますから。

キャンと云う者は、人が「話したくなる」者のように思います。
現在キャンが経営しているPORTOは、客同士の交流に重きを置いているためにあまり見られなくなりましたが、「キャン語り」と云う現象が見られることが偶にあるのです。
昔、新宿歌舞伎町にあった「はな」と云う怪しいバーで、キャンが月イチでバーテンをやっていた頃のことです。
そこは、歌舞伎町の雑居ビルの2階と云う、非常に分かりづらい場所にございました。
必然的に、客はキャンの知人に限られてくる。
そうしますとね、いつしか皆さんキャンについての独自見解を発表し始めるのでございます。
或る女性は「キャンとはカカポである」と言い、また或る男性は「否、キャンとはボノボである」と言いました。
キャン本人を目の前にして、「キャンとは何か」を議論する訳でありますが、これがなかなかどうして面白いのでございますよ。
その一方、キャンは特に口を挟むことなく、ニヤニヤしながら議論の行方を見つめるばかりです。
ある方はその在り様をもじって、「私たちはキャンをいじっているつもりでも、実はキャンの手のひらで転がされているのでは無いか」と言っておりました。
或いはそうなのかもしれません。
現に私も今、キャンとは何かについてあなたにお話している訳でしょう。
これがまさに「キャン語り」なのでございますよ。
私たちがキャンを見つめる時、キャンもまた私たちを見つめているのです。

え、それは「深淵」ではなかったかって?
そうですね、確か「深淵」でしたね。
もしかすると、キャンの中に居る「何か」はブラックホールのような「深淵」なのかもしれませんね。
ええ、あれだけ人を引き付けてしまうのですから、あれはブラックホールなのでしょう。

以上、私のお話はここまででございます。

はい、ええ、そうですかそうですか。
あなたキャンを見たことがあるのですね。
エッ、顔は猿で腕は毛むくじゃら、尻尾が蛇だった?
なるほど、私はその姿のキャンを見たことはございませんが、それもまた、キャンなのでございますよ。



※お付き合い頂きありがとうございました◎
本文は、妖怪小説で有名な京極夏彦先生の文体と設定(正体不明の誰かが誰かに対して語る)を参考にしております。

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