作品聴取ではなく、演奏聴取の視点を持つことー音楽鑑賞と楽器性instrumentalityの関連からー

ナナイの「音楽の二重性(二面性)」という論文を読んだ。

まとめはこれ。

個人的にインスピレーションを受けたのが、「楽器性instrumentality」について。

簡単にいうと、特定の楽器に精通している人は、そうでない人に比べて、その楽器についてより美的に鑑賞することができる、というもの。

これについては、音楽をやっている人なら直感的にわかると思う。自分も、トランペットの演奏が一番「どこを聴けばいいのか」がわかる、と言える。そして、その演奏の特徴や素晴らしい点を言語化することもできるだろう。言語化できる、ということはそれだけ細部に注意を向けることができているということでもある。

しかしその反面、聴き馴染みのない楽器の演奏に関しては、抽象的な感想しか抱けない場合も多い。素晴らしいのはわかる、しかし、どう素晴らしいのかはなかなか言語化できない、というように。

なぜ、このような現象が起きるのだろうか。一つ言えるのは、身体感覚的な問題だろう。何かの楽器に精通していけばいくほど、名手の演奏の凄まじさを身をもって感じることができる。なぜなら 、その名手の演奏スキルと、自分の演奏スキルとを比較することができ、それによってその凄まじさを体感することができるからだ(かけ離れすぎていると、理解不能の凄まじさになってしまうのだが)

例えば、トランペットの例で考えてみよう。ハイトーンを軽々と吹く名手の演奏を聴いて、どのような感想を持つだろうか。「輝かしい音色だ」とか「ストレートに心に響く」などの感想を一般的には抱くのではないだろうか。しかし、トランペット奏者の場合は少し違う。いや、少し違うというよりかは、これらの感想の他に、楽器演奏の面での評価が入ってくると考えられるのだ。

ハイトーンの演奏を聴いたトランペット奏者は、おそらくそのハイトーンの「ストレスのなさ」などの奏法的側面に注目し、感銘を受ける。ハイトーンを吹くためには、力技ではなく(力技でも吹けるには吹けるが、それは力技で出したハイトーンだ、というのは聴いた側からすればすぐにバレる)、微細な息のコントロールや唇の振動を楽器とうまく共鳴させること(音のツボにはめる)などが必要だ。と、口ではいうもののそれを実現するのは難しいのだが。

このように特定の楽器に精通している人は、単に音楽的な評価だけでなく、奏法的な視点でも演奏を評価する。そして、これは実体験からも言えることだが、その奏法的な視点を持つことが、自分を演奏聴取に没頭させる一つの要因になりうる、と考えている。

例えば、特定の楽器についてだけでなく、その楽器の特定の曲の演奏についても精通していたとしよう。「〇〇の箇所が難しい」「スタミナの配分が重要だ」などなど、その楽曲を演奏するための身体的とも言える知識が蓄積されていたとしよう。

おそらく、特定の曲の演奏に精通している人は、そのような視点も持ちながら、演奏を鑑賞し、評価している。言い換えれば、ある種の「予想と期待」を持って、演奏を聴きに来ているはずだ。そして、その「予想と期待」を上回る演奏であれば、素晴らしい演奏だった、と評価されることになる。これも、身体的な評価と言えるのではないだろうか。

このように、特定の楽器に精通することは、音楽を聴くことに多大な影響を与える。言い換えれば、新たな聴く視点を提供する。これは、楽器をやっていない人にはおそらくないであろう視点であり、そしてここにこそ楽器に取り組む、という価値が見出される。

あえて学校教育に文脈を移せば、鑑賞教育のためにも器楽教育を充実させる必要性がある、と言えるだろう。精通する、と言えるほどのレベルに達しなくとも、様々な楽器に触れることによって、その楽器が演奏されている瞬間に、「どこがすごいのか」「なぜこの楽器で演奏されているのか」などといった視点から音楽を、そして演奏を捉えることができるようになるだろう。

もちろん、これは理想論ではある。器楽の授業はリコーダーやギターを準備するのがやっと、というところも多いだろう。しかし例えば、特定の楽器の構造や音の出し方、奏法上の利点や不利な点などを説明するだけでも生徒の音楽を聴く視点は変化する。鑑賞を行う前に、「楽器性」という観点から授業を組み立てること。「音楽作品」の分析的な聴き方だけではなく、「演奏」に着目した聴き方の提示も必要だと思う。



おそれいります、がんばります。