動画学習サービスに代表される教育のデジタル化と、それを踏まえた学校のあり方について。あと教師のあり方とか。

コロナウィルスの影響で、3月のほとんどが学校が休校状態になっている。

そんな時間的余裕のある中で、働き方改革、そして学校教育のあり方が各所で問われている。先日Twitterでも、学校行事を削減するべきだ、業務を効率するべきだ、デジタル化だ、と議論されているのを横目に、自分なりにこの問題について考えてみた。

「行けなくても」と「行かなくても」

コロナウィルスの感染予防措置としての一斉休校によって、Classiやスタディサプリに代表されるような、授業動画の認知が広がった。さらに、YouTubeにはこの機会に多くの教育系YouTuberたちが休校期間中の生徒に向けて授業動画を配信している。

どの動画も、専門分野の講師陣が講師を勤めていることもあって、わかりやすく、面白い。そして授業に無駄がない。自分が高校生の頃、こんなサービスがあったら、正直学校の授業そっちのけで動画で勉強していたと思う。独学が好きだという自分の性格もあって。

この機会に、YouTubeで講義動画を出している教育系YouTuberを探し、何人か動画を見てみた。

その中でも、面白かったのが、「ヨビノリたくみ」。

https://www.youtube.com/embed/4p1rwfXbCoY

ここまで、数学という授業に興味を持つことができたことはこれまでにない。学び直したくなった。

他にも、多くの教育系YouTuberが質の高い動画を出している。もちろん、面白さを重視して内容的には質の低いものもあるが。

ここまで面白くわかりやすい授業が、YouTubeの場合は無料、スタディサプリの場合は月額1980円で誰でも受講可能である。これは、誰でも質の良い教育を平等に受けることが出来るという観点で見たとき、非常に素晴らしいサービスだと思う。そして動画で学ぶということが今後さらに一般的になるだろう。学校に行けなくても、質の高い勉強が出来るように考案された教育サービス。SDGsの観点にもスタディサプリは合致している。

学校に行けなくても、質の良い教育を受けることができる。

しかしそれは、学校に行かなくても、質の良い教育を受けることができるということでもある。

そのように考えた時、学校における授業のあり方は変化していくだろう。いや、学校全体のあり方が変化していくと考えられる。

そして今現在、多くのところで議論されているのが、冒頭にも述べたような「教員の働き方改革」そして「学校のあり方」を考えることである。これについて、自分なりに考えたことを書いてみる。

働き方改革におけるICTの導入

教育現場では、タブレットをはじめとするICT機器の導入が進んでいる。その恩恵は実際に働きながら実感している。特に、このコロナウィルスによる一斉休校という事態において、タブレットが全生徒に普及されていたことで家庭への連絡の手間はかなり軽減されている。これを電話で、と考えただけでもゾッとする。1日が連絡で終わってしまう。

そしてこの間、生徒の学習を保証するために、Classiによる授業動画を配信するなどして対応している。そのような学校が多いだろう。このような事態でも、学習動画サービスによって生徒の学習がある程度保証されるということは素晴らしいことだと思う。

しかし、このことに一抹の不安を感じる。

極端に考えれば、このような学習動画サービスによって、学校で行われている授業が排除されていく可能性がある。

急いで付け足さなければけないのは、「従来の講義形式の授業」が、ということである。

冷静に考えてみよう。一方は質が高いがどうかはわからず、一方通行で授業は進み、わからないところがあっても時間の制限によって丁寧に説明してもらえないまま終わる授業。他方は質の高い内容が保証されており、何度もその講義を受けることができ、わからないところは一時停止して自分のペースに合わせて進むことができる授業。どちらを選ぶだろうか?

今は、授業の内容だけを取り上げている。先生との相性とか、周りに他の生徒がいるということはとりあえず棚に上げておこう。

このような条件で、おそらく大多数の人が後者を選択するだろう。実際、自分だったら後者を選ぶと思う。

言いたいのは、「従来の講義型の授業」は、学習動画サービスに取って変わられる可能性が高いということだ。まずは、この極端かもしれないがいずれ来ることが予想される状況を前提にして、話を進めたい。

そのような前提をおいた時に、では、どのようにして授業のあり方を変えていけばいいのかということを考える。

授業のあり方をどう変えていくか

2つの方向がある。

従来の講義形式を踏襲していくスタイルと、アクティブ・ラーニングの視点に立ったスタイルである。

従来のスタイルに求められるのは独自の「視点」

まずは、従来の講義形式を踏襲していくスタイルで考えてみる。なぜまだ従来の講義形式を考えるのかというと、日本の教育の歴史的背景や社会的文脈を考慮した時に、すぐにアクティブ・ラーニングのような授業形式に移行していくのは難しいと考えられるからである。教師にとっても、生徒にとっても。とはいえ、今行われている授業でも完全に講義型の授業というのはそれほどなく、アクティブ・ラーニング的な要素はある程度入っているものと仮定する。

従来の講義形式を踏襲していくスタイルにおいて重要なポイントは様々あるが、個人的に重要だと思うのが、「この先生に教わりたい」と思えるような先生になること。言いかえれば、人として面白くなること。その人独自の「視点」を持つこと。それが、学習動画サービスと自分を分ける違いになる。

思い返せば、今自分が興味を持っていることは、これまでに出会った尊敬する先生に刺激を受けてきた分野が多いことに気づく。その先生たちは、教え方は上手くなかったかもしれない(もちろん上手い人もいる)。しかし、自分はその先生たちが喋る内容だったり人となりが好きだった。その人自体に魅力があった。こういう人になりたいなぁと思った。

ICTやAIといったテクノロジーの発展において、しばしば「人間がテクノロジーの奴隷になる」というようなことが言われる。テクノロジーの奴隷になるとはどういうことか?自分の考えでは、効率化とともに人間の行動や思考が画一化していくことだ。

効率化による画一化。これがテクノロジーの奴隷になること。

ICTを導入することによって、効率化が進むとともに懸念されることは、授業内容の画一化である。ICTありきの授業になる。ツールとしてのICTではなく、ICTを使うことそれ自体が目的になる。こういう現象はICTの導入初期において顕著に現れがちだと思う。この状態は、教師がICTの奴隷になっていると表現してもいいだろう。そのような状態では、授業に教師独自の「視点」というものが失われてしまう。つまりオリジナリティがなくなる。内容が画一化する。

そうならないために、まずは教師が自分なりの「視点」を持つことが大事だと思う。では自分なりの「視点」とはどういうことか?

ところで自分とは何か、ということを突き詰めて考えていくと、自分とは様々な他者で成り立っているということがわかる。目の前の他者によって自分が変化する、というような平野啓一郎の「分人主義」が有名だが、自分について考えると、嫌でも自分独自のものなどない、という現実に気づかされることになる。

では、自分なりの視点などというものは存在しないのだろうか?

そのように相対主義的に考えていくと、自分なんてものはない、という極論に達してしまいそうになる。しかし、そうではない。自分というものは確かに他者によって成り立っているということから考えてみれば相対的なものだが、これまでに出会ってきた他者はそれぞれの人によって違う。平野啓一郎は「分人の構成比率」という言い方をするが、これまでに出会ってきた他者(人間だけではなく、様々なものや出来事も指す)の違いが、「自分」のオリジナリティをつくる、とは考えられないだろうか?

確かに、自分が考えたことは「すでに誰かによって考えられていること」なのかもしれない。だが、そこにオリジナリティがないと考えるのは時期尚早だ。

自分が、様々な他者との出会いを通じて、「その考えに至ったということ」に意味がある。

だが、勘違いしないで欲しいのは、同じアイデアだったとしても、「その考えに到る」ということと、「その考えを受け入れる」ということは全く違うということだ。つまり、自分で考えたのか、単純に考えを仕入れてきただけなのか、という違いだ。

なぜか。それは後者には「自分」という視点が欠けているからだ。あくまでそれは他者の「視点」でしかない。もちろん、自分が考えてきたことの先にその仕入れてきたアイデアがぴったりハマるということもある。その場合は、自分の視点がすでに構築されていると思っていいだろう。

良くないのは、そのアイデアの背後にある文脈や考えを知ることなしに、そのアイデアのいいとこ取りをしてしまうということだ。言いかえれば、アイデアの表面だけを理解するということ。それは、アイデアに使われているという状態を引き起こす。アイデアの奴隷になる。テクノロジーで見た構図と同じだ。

自分なりの「視点」、言いかえれば「こだわり」は、必ずプロセスの中で形成されていく。他者と出会うプロセスの中で自分が形成されていく。プロセスが大事だ。結果ではなく。ところで他者とは、人間だけでなくさまざまな物事をさす。本も他者。何かの考えも他者。そういう他者に触れて考えていくことで、自分が作られていく。

まとめよう。自分なりの「視点」を持つこととはどういうことか。それは、「こだわり」を持つことである。そしてそのこだわりとは、他者との出会いのプロセスのなかで形成されていく。そのプロセスの結果として、「そのアイデアに到る」。

単純にいえば、「専門性を高めるために勉強しなさい」ということになるのだが、多くの人が表面的な勉強で満足してしまう傾向があるように思う。それは時間的な制限の問題ももちろんあると思う。だから、教材研究の時間を確保することが個人的には優先すべきことだと思っているのだが。

面白い人になるために、「浅く広く」勉強するのではなく、「深く狭く」勉強していくこと。

そして自分独自の「視点」を作っていくこと。人は、そして生徒はそこに惹きつけられると思うし、それが何より自分の「価値」になっていく。

というわけで、「深く勉強」しましょう。

アクティブ・ラーニング、教科横断的、総合的な学習

とはいえ、講義形式の授業スタイルは時代の流れ的にも、先ほど述べたような質の高い学習動画サービスの普及を考えても、減少していくのではないか。

となると、別の授業の仕方を考えていく必要がある。とはいえ、それはもうすでに考えられており、それがいわゆるアクティブ・ラーニングという形態だ。

その実施には様々な課題や懸念があるし、自分自身アクティブ・ラーニングには非現実的な部分が多いと感じていることもあり、否定的な考えを持っていた。

そもそもアクティブ・ラーニングを実行していくことそれ自体が多くの知識によって支えられていると考えられる。つまり、勉強するために活動するのではなく、活動するためにはまず勉強がいるのではないか?という考え方。これは多くの人が考えていることではないかと思う。

アクティブ・ラーニングそれ自体を否定しているわけではないが、その素地を作るためにも基礎学習が必要だろう、ということである。

また、評価されるのは純粋な学力であり、アクティブ・ラーニングで培ったような「主体的な力」が、現在の日本社会においてはまだ評価されないのではないか、受験でどのように評価するのか、という懸念もある。

依然としてこのような懸念はあるが、ここで肯定的に学習動画サービスを捉えてみよう。つまり、基礎学習を保証するものとして学習動画サービスを使うのだ。

そして、学習動画サービスによって基礎学力が身についたという前提で、アクティブ・ラーニングを進めていく。これなら可能ではないか?と最近思っている。

これがいわゆる「反転授業」というもので、以前から研究は行われているが、実際この「反転授業」を行うことは難しく、あまり行われていないのが現状だろう。これにはICT機器が普及しきっていないという背景もある。

しかし、今後はむしろこの「反転授業」が主流になってくるのではないか?と考えている。そうした時に、学校に新たな価値が生まれてくる。

つまり、学習を一方的に学ぶ場所ではなく、その知識を生かして活動していく場所としての学校へ

と、考えた時に、アクティブ・ラーニングの授業形態との親和性が高まってくる。また、教科横断的な授業のあり方も一般的になるだろう。なぜなら 、アクティブ・ラーニングによって「深く」勉強するのであれば、一見別のように見える教科同士の繋がりに気づくからである。

学問は、深いところで繋がっている。

個人的には、「音楽」をはじめとする芸術科目は教科横断のための媒体になりうると考えているが、それについてはまた考えがまとまってからにしたい。

そして、教科横断を超えて、総合的な学習へ、という流れが見えてくる。

現在は、教科横断すらままならなく、総合的な学習の時間はもっぱら学校行事や進路学習やHRに当てられているのが現状だろう。しかし、ようやく総合的な学習の時間が日の目を見ることになるのではないか。学習動画サービスの普及によって。

構図をまとめよう。

自宅での基礎学習(学習動画サービス)→学校でのアクティブ・ラーニング、そして教科横断的な学習→総合的な学習へ

という流れである。これまではそれぞれの部分で研究が進められてきてはいたものの、それをどのように繋げていくのか、というところに課題があったと考えられる。だから、それぞれが独立しており、特に総合的な学習の時間については「どう取り扱って良いかわからない」という現場の困惑があったのだろう。

しかし、基礎的な学習が学校外でも可能になることによって、一気にこの構図の現実味が増す。これまで理想的ではあったものの非現実的だったアクティブ・ラーニングや教科横断的な授業、そして総合的な学習の時間が、ようやく生きはじめるのではないだろうか?

とはいえ、課題もある。教師側にも、生徒側にも。まだ現実的でないことも確かだ。しかし、以前に比べればだいぶ見通しが立ってきたのではないだろうか?

その上で、学校のあり方や働き方改革を考える

このような状況を考えた上で、働き方改革や学校のあり方を考えるべきではないかと思うのである。

行事のあり方を見直すべきだとは思う。しかし、行事を「やるかやらないか」もしくは「できるかできないか」の二元論で考えている時点で、その議論は「あり方」が論点になってはいない。結局そこでは「ありか無しか」の二つにしか議論は帰結しない

このような背景を考えた上で、従来の行事をどのように「変えていくか」という視点。総合的な学習の時間がもっぱら行事に使われているという批判がされることが多いが、行事がそのような活動の時間で「あれば」、問題はないのではないだろうか。そのような「あり方」にシフトしていくこと。むしろそう考えていくことの方がずっと大切であるように思う。

おそれいります、がんばります。