こだわりとフットワーク

自分はこだわりが強い。一般的なこだわりのラインがあるとして、確実にそのラインを超えるこだわりの強さだと思う。

こだわりの強さについては、ネガティヴな感情を持っていないが、それはそれで、困る時もある。例えば、流れに乗っかる、ということを躊躇してしまうということだ。

自分の中で、これだ、という納得ができるまで、なかなか一歩踏み出せない。踏み出せない、というか踏み出したくない、という思いがある。

だから、何かしらの行動を移すときはかなり調べる。調べた上で、行動する。大切だが、スピード感に欠ける。このスピード感のなさは、こだわることのメリットでもありデメリットでもある。

しかし、どれだけ調べて身につけたことも、考え無しの一歩によって一瞬で悟ることもある。まさに、百聞は一見に如かず、だ。

そのバランスをどう取るか。

フットワークの軽さを決めるのは、その対象についての自分の価値観なのかもしれない。自分にとって重要だと思われるものに対しては、慎重になるだろう(逆に飛びつくということも考えられるが)。反面、まだ自分にとって価値を見いだせていない対象に対しては、幾分足取りは軽くなる(これまた、どうでも良すぎて逆に動かないということもある)

要するに、その対象を「喪失」した時、どう思うかで、フットワークの軽さは決まる。その喪失感の度合いが、足取りの軽さを決める、と言えるのかもしれない。

何気ない一言が、関係性を壊してしまうかもしれないし、別にどうってことない言葉としてスルーされるかもしれない。だけど、それを決めるのは自分ではなく、相手だ。だから、自分はその一言を言うべきか言わないべきか、その対象、相手との関係の重要性によって決める。

バランスの取り方、それは、対象への喪失感の度合いを考慮することによって決めることができるのかもしれない。とはいえ、それは、喪失感の度合いが強いから慎重になるべきだ、とか、弱いからなりふり構わず行動するべきだ、というような話ではない。喪失感の度合いに自覚的になった上で、どうするか決めるというメタな視点を持つこと。喪失感の度合いは強いが、博打に出てみる、ということも可能だ。弱いが、いずれ重要になるかもしれないと思って、慎重に動くこともできるだろう。

とはいえ、喪失感の度合いはフットワークの軽さの指標にはなると思う。

「俺には失うものがないから、なんだってできるしどこへでも行ける」

ありきたりな台詞だが、喪失感の度合いがフットワークの軽さを決める、という視点からみた時、これほど正確に表している言葉もないな、と改めて思う。

おそれいります、がんばります。