主体と客体の「あいだ」、あるいは能動と受動が成立する場としての「中動」

最近の関心事は二項対立されたものの「あいだ」を考えることにある。

そもそも、どのようにして二項対立は成立するのだろうか。

主体と客体、認識するものと認識されるもの、能動と受動という対立を考えてみる。

そして、それらの対立を成り立たせる根源的なものは何なのか、そしてそれを語る言葉はあるのか。ということについて考えてみる。

主体と客体に分かれる前、未分化の状態

主体と客体という枠組みに慣れ親しんでいるわれわれは、主体が客体に対して何かをする(能動)ものであり、それに対して客体は主体によって何かをされる(受動)ものであるということを信じて疑わない。

もとから主体と客体は「分かれて」存在している。「別のもの」として存在している。そのように信じて疑わない。

しかし、一体何から「分かれて」存在しているのだろうか。「分かれる」というからには、未分化の状態があったということになる。今は「分かれている」が、未だ「分かれていなかった」状態がある。もとから分かれる以前。

では、その未分化の状態とは一体何なのだろうか。当然のように主体と客体という二項対立の枠組みの中で生きているわれわれには通常意識されることのない「未分化」の世界とは何なのか。

ところで、われわれはこのように主体と客体が分かれて存在していると信じていながらも、時折「自分が全体の中に溶け込んだ」ような感覚を経験する。自意識の欠如。そして全体の中へ溶けていくこと。主体も客体もないような状態。

合奏を例に考えてみよう。確かに演奏しているのは「私」であり、「他の誰か」である。その意味で、演奏される音楽はそれぞれの演奏者の支配下にあるとも言える。演奏の自由はそれぞれの個人にある。しかし、その一方でこう演奏するしかないという「何か」がそれぞれの演奏者を貫いている。共有されている。そして演奏はその「何か」によって言わば自動的に進んでいく。その状態において、それぞれの演奏者の自意識は喪失されている。自分という意識ではなく、そのアンサンブルという全体の意識になる。自分がアンサンブルになる。自分が全体の中に溶け込んでいく。そしてしばしばその状態が理想的な状態であることが語られる。

この現象は何も音楽に限ったことではない。スポーツでも、他の芸術活動においても、また、普段の生活の中にも見られる現象である。

このような現象は、これまでに様々な言葉で語られてきた。「ゾーンに入っていた」「無我の境地だった」「自分がオーケストラになっているような感覚だった」など。このような自意識が喪失し、ある活動に没入していく体験のことを、心理学者のミハイ・チクセントミハイは「フロー体験」と名付けている。

これらのような状態において、「主体と客体」「能動と受動」という二項対立はもはや成り立たない。自分が全体であるような、全体が自分であるような感覚。自分がコントロールしているようでいて、自分がコントロールされているような感覚。自分が他者と同一であるような感覚。未だ自分と他者が分かれていない状態。「未分化」の状態。

このような状態が確かにある。主体と客体という枠組みに慣れ親しんだわれわれの意識には上らないが、それがなくては「主体と客体」「能動と受動」という二項対立も成立しないような根源的な状態。しかし、主体と客体という枠組みによって、さらにいえばそのような枠組みによって成り立っている言語(能動態と受動態という対立)によって、この「未分化」の状態を表現することは難しくなっている。

とはいえ、このような状態があることも明白な事実である。とすれば、それを表すような言語のあり方はなかったのだろうか。そのような言語のあり方があるとすれば、そこから上に述べたような「フロー体験」「未分化の状態」言い換えれば「芸術的な体験」について考察すること、あるいは語ることの手がかりを得ることができるかもしれない。

そして、そのような言語のありかたは確かに存在していた。いや、今でも存在している。ここでは、能動態でも受動態でもない、第3の態である「中動態」について見ていこう。

「中動態」とは何か

「中動態」とは、能動態と受動態という枠組みのなかで生きているわれわれにとって馴染みの薄い言葉である。多くの言語は能動態と受動態という枠組みの中で営まれている。しかし、中動態という言わば第3の態を用いる言語も、存在する。さらにいえば、現在われわれが慣れ親しんでいる能動態ー受動態という枠組み以前に、能動態ー中動態という枠組みが存在していたのである。

では、その「中動態」とはどのような態なのだろうか。

森田亜紀は『芸術の中動態ー受容/制作の基層』の第三章「言語の範疇から思考の範疇としての中動態へ」の中で、中動態の持つ性格を整理している。

それによれば、「中動態(middle voice)は、能動態(active voice)、受動態(passive voice)とならぶインド=ヨーロッパ系言語の態の一つで、古代ギリシア語やサンスクリット語に明確な形で見られる」ものであり、また、「言語学では中動態という用語を、それ以外の事例、例えば現代のドイツ語やフランス語や英語のある種の表現にも適用し、考察している」。

用法の例をあげることはしないが、中動態の用法はきわめて多岐にわたる。能動的な表現があるかと思えば、受動的な表現もあり、またひとりでに生じる出来事の表現や人の心の中の表現もある。

森田は、このように多様な中動態の用法に共通の性格、言い換えれば中動態の態としての根本的な性格を、言語学者たちの諸説から整理していく。

主語が過程から影響を被ること、そして過程の「座」であること

多くの言語学者が、中動態の特徴として「主語が動詞の表す過程から作用を受ける」ということ、すなわち主語の「被作用性affectedness」を認めている。しかし、それは現在用いられている受動態とどのような違いがあるのだろうか。

言語学者のバンヴェニストによれば、インド=ヨーロッパ語においては、能動態ー中動態の対立が先にあり、その後に能動態ー受動態という別の対立が出現したという。その能動ー中動という対立は、能動ー受動という行う行為ー受ける行為という対立とは別の意味を持つ。

バンヴェニストは、ギリシア語・ラテン語・サンスクリット語の能動態のみをもつ動詞と、中動態のみをもつ動詞を比較することで、能動ー中動の対立を以下のように結論づける。

「能動態では、動詞は、主語から出発して主語の外で実行される過程を示す。中動態はこれとの対立によって定義されるべき態であるが、そこにおいて動詞は、主語が過程の座であるような過程を示し、主語は過程に対し内的である」

主語は過程に対して内的であるとはどういうことだろうか。森田はこの引用を持ち出したあと、次のようにまとめている。

「能動態の主語は、そこで生じている過程の外にあり、自分自身はその過程に巻き込まれることなく、その過程を支配するような動作主ということになるだろう。これに対して(…)中動態の主語は、ただ動詞の表す過程に巻き込まれ、過程の中で何らかの違った状態になるのであって、それが一般に「被作用性」と言われる」。

つまり、動詞が表す過程の外に主語が位置する場合、その動詞は能動態となり、動詞の表す過程に主語が巻き込まれ、その過程に巻き込まれる中で主語の状態が変化していくような場合、その動詞は中動態となる。

では、過程の「座」とは何だろうか。森田は以下のように述べている。

「バンヴェニストは、中動態の主語について、それが動詞の表す過程の「座siege」や「場lieu」であるという言い方をする。われわれは一般に能動ー受動を、互いに外的な項と項との関係と捉えている(…)しかし中動態の主語は、このような項ではなく、むしろそこで何事かが起こるとき、起こる出来事によってそれ自身が変化する場とみなされる。そして出来事は、何かがわざわざ外から引き起こしたのではなく、ただその場で起きているものと、捉えられている」

「座」とは、主語において動詞の表す過程=出来事が起こっているというような状態を表す。その出来事の起こる「場(座)」としての主語。出来事と主語とが未だ分かれていないような状態。つまり中動態において、主語=出来事(の生じている場)である。

動作主がないこと、出来事的であること

言語学者のゴンダJan GONDAによれば、中動態の根本的な特徴とは「動作主がないこと」つまり「動作主の不在」にあるという。

バンヴェニストが「主語は主語において実行される何事かを実行する」と過程の内部にだが動作主を認めるのに対して、ゴンダは動作主の不在を意味する「出来事的eventive」という特徴を、中動態に指摘する。ゴンダによれば「出来事的」とは、

「何かが主語に起こったり、ふりかかったりすること、主語になる人の中で何かが起こること。過程が生じ、そのことによって主語が、何らかの仕方で、影響を被ること」

である。つまり、ゴンダの見解にもとづけば、能動と中動の対立は「動作・作用・状態が人為的・作為的であるか、自然展開的・無作為的なものであるか」というような区別になる。

しかしながら、安易にそのように結論づけることができないのも事実である。なぜなら 、中動態には「体を洗う」「服を着る」というような自分の身体に関わる動作や、二人の人間が互いに「抱き合う」「闘う」といった相互的な動作も、多くの言語で中動態で表されることがあるからである。

このような中動態の用法は「再帰中動態」と呼ばれ、しばしば再帰と同類のように扱われる。また、ドイツ語やフランス語において中動に相当する表現が、<sichあるいはse + 他動詞>というように自分自身を目的語とする再帰の形になっているという事実もある。

では、この再帰と中動を区別するような特徴が中動に見受けられるのだろうか。このことを論じている言語学者にケマーがいる。

過程に参与するもの(関与者participant)の区別可能性の低さ

ケマーは再帰と中動を意味の上で次のように区別する。

再起においては「起動者は他の実体に働きかけるのと同じように、自分自身に働きかける」が、中動では「起動者と終点という二つの意味論的役割が、ただ一つの全体的な実態に帰される」。

これを理解するために、ケマーが中動態の特徴をどのように捉えているかについて知る必要がある。ケマーも他の論者と同様に「主語の被作用性」を中動態の一つと認める。しかし、そのことを「起動者Initiator」が動作の「終点Endpoint」でもあるという形で理解するのである。

ケマーによれば、再帰が、「自分を見る」「自分を叩く」というように、自分自身を対象とした他動詞表現と捉えることができるのに対し、「服を着る」「体を洗う」と言った中動においては、起動者と終点、つまり主語と目的語(主体と客体)に呼応するような役割が、主語のうちでは区別できないという。

二人の相互的な関係でもこれは当てはまる。「抱き合う」「闘う」ということを再帰で言い表す場合には、まず片方が抱きしめ、そしてもう片方が抱きしめるというように理解される。また、片方がまず先に手を出し、もう片方が手を出すという形で理解される。

それに対して、中動で言い表す場合には、両者が同時的に抱きしめるような状態、両者が同時に手を出し合うような状態として理解される。そこではどちらがその動作を、つまり出来事を始めたのかという区別はできない。

このような「起動者と終点の区別ができない」という特徴を、ケマーは「関与者の区別可能性の低さlow distinguishability of partipants」と規定する。

ケマーは、この「関与者の区別可能性の低さ」の程度によって、再帰と中動を、他動詞と自動詞の間に位置付ける。

「他動詞では出来事に関与するものが二、自動詞では一であるわけだが、その二と一のあいだに、再帰と中動は位置する。再起に比べて中動の方が出来事に関与するものの区別可能性が低いわけだから、再起は他動詞の二寄り、中動は自動詞の一寄りに、位置付けられることになる」。

ここでいう「一」や「二」とは、その出来事に関わる「項」の数を指すと考えられる。他動詞においては、出来事は主体と客体という二つの項が関与するが、自動詞においては、出来事に関与するのは主語それ自身のみであるため一つの項であるといえる。その一と二のあいだに、再帰と中動は位置付けられる。

とはいえ、中動態は一を二に分割するものではない。

「中動態の主語は、「ただ一つの全体としての実態a single holistic entity」と言われるものの、(…)自己同一的な一や二ではなく、一が二に分割されているのでもなく、一と二の微妙なあいだ、差異とも言えない差異、ずれとも言えないずれに、関わるように思われる」。

このように、中動態の主語は「一」や「二」といういわば点的な項に関わるのではない。「一」と「二」のあいだの微妙な揺れ動き、グラデーションのような明確な区別のない状態、そのような線的な項の変化に関わるのだといえるだろう。

諸特徴の関係

これまでに、様々な言語学者の中動態に関する論を見てきた。これらの論から得られた中動態の諸特徴が互いにどのように関係するのだろうか。森田は次のような形で中動態の性格をまとめている。

「能動態やその反転である受動態が、自己同一的な項を前提とするのに対し、中動態は、自己同一的な項を必ずしも前提としない表現だと考えられる。項を基本とする表現ではない、と言った方が正しいかもしれない」。

バンヴェニストの導き出した「主語が過程に対して内的である」「主語は過程の座である」という中動態の特徴からは、中動態の主語が、「場に出来事が起こり、出来事を通じて場が変化する、そういう場」であるとも言えるだろう。

ケマーは「起動者ー終点」という項を基本とする図式から出発するものの、結果として見出されるのは「関与者の区別可能性の低さ」、つまり「単位として安定した項の否定」である。

このように、ケマーが見出した中動態の特徴は、バンヴェニストが見出した中動態の特徴とつながっている。つまり、中動態は、能動態や受動態のように自己同一的な項を基本とし、項と項の関係で自体を表現するのではなく、過程の中で全体が変化する、差異が生じ、変化が起こるというように、事態、言い換えれば「出来事」を表現すると考えられる。

そしてこの自己同一的な項を基本としないということは、「出来事」が主語にふりかかるという「動作主の不在」を中動態の特徴としたゴンダにも結びつく。なぜなら 動作主を考えるということはすなわち、動詞で表される過程を引き起こした本体=主語=項の存在を前提とするからである。

これに対して中動態は、動詞の表す過程の中で、物事がどのように生成したり変化したりするかを表現する。森田はこのような中動態のありかたを次のように言い換える。

「(中動態は)「もの」から出発するのではなく、「こと」が起こるということそれ自体から出発して、事態を捉えるやり方だとも言えよう」。

「過程は何かによって引き起こされたのではなく、まず起こったのだ。動作主は見当たらず、出来事は、いわばひとりでに、どこからともなく起こるということになる」。

このように、出来事が「おのずから」、つまり自然発生的に生じたとしても、その出来事および出来事の主語になる「何か」は「一」ではない。なぜなら 、中動態によって表されるのは、「一が二であり、二が一であるような過程の途中の出来事」だからである。

まとめ

主体と客体という二項対立の枠組みの中で生きているわれわれは、その枠組みを当然のものとして受け入れ、もとから主体と客体に分かれていると信じて疑わない。しかしながら、そのような枠組みの中で生きているわれわれでさえ、芸術的な体験の中で「自分が全体であり、全体が自分である」ような主体と客体が未だ分かれていない「未分化の状態」を身をもって知る。

このような「未分化の状態」を語る言葉を探ること、それが本論の目的であった。

しかし、そのような状態を語る言葉は「主体ー客体」「能動ー受動」という二項対立の関係で生きているわれわれ、そしてわれわれが使う言語の中には存在しないように思われる。そのような枠組みで考えるのではなく、「中動態」という第三の態を手がかりに、「未分化の状態」を語る言葉を探っていった。

様々な言語学者の論考から導き出された中動態の特徴は、以下のようなものであった。

「主語が過程に対して内的である」「主語は過程の座である」(バンヴェニスト)

「動作主の不在」(ゴンダ)

「関与者の区別可能性の低さ」(ケマー)

これらの諸特徴から、森田は以下のように中動態の性格を結論づけた。

「一が二であり、二が一であるような過程の途中の出来事が中動態で表される」。

まさに、「未分化の状態」が中動態によって表現されると言えるだろう。

「未分化の状態」いわば「芸術的な体験」を語る言葉の手がかりが「中動態」にあることがわかった。では、具体的に中動態によって「出来事」はどのように語られるのだろうか。

その語られ方=用法を手掛かりに、「未分化の状態」「芸術的な体験」について語ることができるのではないだろうか。







おそれいります、がんばります。