溜め息交じりの強かさ――遠藤由季『鳥語の文法』書評

 「かりん」所属の作者による、約7年ぶりの第二歌集。2010年から2016年にかけての375首を収める。

ガムテープの芯の真ん中にいるようだ荷物がまとまらない真夜中は
いつもなにかを抱えておりぬカステラの底のざらめはさりさりとする
わたくしを薄めゆくのは言葉なり蜘蛛のひかりを纏う本選る

 読み始めると、こうした歌が溜め息交じりに響いてくる。職場や家族、更には年齢といった、個人の生活に関わる歌も並んでいるが、ここに描かれているのは特定の人物や出来事に由来する悲哀ではなく、そうした日常の流れの中で不意に心をよぎる感情のざわめきだ。その感情の正体はあくまでも「なにか」であり、どんなに巧みな比喩を用いて表現したところで、「言葉」によって言い当てた瞬間に「薄め」られてしまうようなものである。内的自己と外的世界が対峙した時に、この作者の場合は圧倒的に外的世界の方が強くなる。

この町にまた打ち寄せてしまいたるわれは見ているすじ雲の空
「思うよ」と締めくくるとき春の陽は修正テープのように差し来る
夕立を崩さぬように入りたる洋菓子店にレモン水冷ゆ

 これらの歌に見られる言葉の斡旋に驚かされる。一首目や三首目、「この町」や「夕立」の方が作者の行動や意志よりも強いものとして描かれている。二首目の卓抜した比喩は「修正テープ」の用途と、そのようなものとして「春の陽」を受ける「私」、という構図を敢えて重く受け止めたい。世界の摂理は、有無を言わさず「私」をその運動の渦中に放り込む。そして、世界の側の論理を被るものとして「私」が描かれる時、斡旋された言葉や、それらの言葉に基づく認識は、外的世界を受け入れつつも内的自己の痛みや哀しみを湛えるのである。

電磁波でパウンドケーキを焼き上げて心の一部とする、さみしさを
海老天丼もうすぐ退職する人と食みおり尻尾も頭も残さず
嘘つかず心も込めずこの秋も国勢調査票塗りつぶす

 無論、この作者の描く「私」が弱々しいなどと言いたいのでは決してない。事態はむしろ逆なのだ。ここに描かれているのは、受け入れることの強かさ、被ることの強さであり、だからこそ「さみしさ」から目を背けずに「心の一部」として受け入れようとするのである。時に、そこまで言い尽くすのか、と思わせるような歌に出会うこともあるが、そうした歌の強さの本質は、言葉ではなく、その先の認識する自己の強かさにある。世界と対峙するように、作者は「私」とも対峙するのだ。

 加えて、言葉もここでは現実に対する抗いの手段ではなく、認識における諦念や達観の表出として用いられる。この作者は、言葉や認識によって世界や現実に楯突くのではなく、一度は徹底して世界の摂理を受け入れた上で、その先の身の振り方を、言葉を通じて選び取ろうとする。この歌集の魅力は、世界と対峙する「私」の溜め息交じりの強かさにある。

(「塔」2017年11月号:歌集・歌書探訪)

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