「声」の持ち主(「現代短歌」2016年7月号歌壇時評+あとがき)

 最近、短歌における「声」について、ぼんやりと考えている。

 「歌壇」[2016年]3月号の座談会「震災詠から見えてくるもの」において本田一弘は、自身の最近作「さんぐわつじふいちにあらなくみちのくはサングワヅジフイヂニヂの儘なり」(「サングワヅジフイヂニヂ」「短歌研究」[2016年]2月号)に触れつつ、「自分たちの世界は『サングワヅジフイヂニヂ』という濁音であり、ちょっとなまっている。あれから五年が経過しようとしていますが、『サンテンイチイチ』ではなくて、ずーっと『サングワヅジフイヂニヂ』のままです」と語った。本田の連作には「亡きひとのこゑに凝れる冬のそら 雪新たしくこぼれてきたる」「訛りとは正しからざる音なりと方言札を下げさせられつ」等の歌が見られ、本田の「声」や方言に関する問題意識をおのずと垣間見ることが出来る。

 座談会にも同席した梶原さい子は早速、「塔」[2016年]5月号に発表した評論「五年目の諸相――東日本大震災から五年の歌を読む」で、本田の歌を「震災前から持っていた『みちのく』対『東京』という視座をより明確にし、東京に対抗するための武器として、『方言』をいよいよ意識的に、まっすぐに手にしている」と評した。地域が限定されるという方言の特性によって、歌から聞こえる「声」はその地域に住む者の「声」と容易に結びつくことが出来る。それは何も、口語における標準語からの差異化だけでなく、文語という、近代以降の短歌が保持し続けている文体の一大規範からの差異化をも含んでいる。本田の作品も、全体はほとんど文語で詠まれており、だからこそ、20首の最後の歌にある「サングワヅジフイヂニヂ」が目を引くのである。

 今更言うまでもないが、短歌には、定型を有する調べの文芸という側面ある。私たちは短歌を読む/詠む際に、意味内容と同時に音声の連なりにも気を配る。そうでなければ、韻律は批評の対象にすらなり得ない。だが、批評され得るということは、そこに何らかの規範が存在することを意味する。それゆえ、読者が一首を黙読して感じ取る音声は、多くの場合、口語であれば標準語に近い形で、文語であっても(実際に音声で聞いたことなど無いにもかかわらず)何らかの規範に準じた音声として顕在化するのではないだろうか。

 しかし、筆者は本田の20首を何度か読み返す内に、それ以外の文語の歌すらも「ちょっとなまっている」声で再生されるようになったのを感じた。仮に本田の20首を無記名の状態で読んだとしても、「澤庵」を「たぐわん」と読ませ、例の日付を「サングワヅジフイヂニヂ」と読ませるこの「声」の存在を、読者は体感し得るだろう。すると、今度は連作中の「東日本大震災に係る応急仮設住宅の供給期間の延長決まる」のような歌すら、平板なアクセントの「声」によって再生され、頻出する長音や最後の終止形で結ばれた動詞の印象すらも変わってくるのである。

 無論、各方言についての情報が読者側にどれだけ共有されているかで、この「声」は変質する。方言を含まない歌を一首抜き出しただけでも起こり得ない現象だろう。それでも、「東京に対抗するための武器」として方言を捉えた時、作品から聞こえる「声」が読者の側ではなく、作者個人により近いところから発せられている点に気づかされる。要は「声」が(文体が、とも言えよう)「私」を作っているのである。

 これとは全く逆の例を考えてみよう。先日、染野太朗と吉岡太朗の二人による同名短歌ユニット「太朗」が最新号として「洞田明子歌集『洞田』」を発行した。これは、「駅」をテーマにする短歌を公募し、集まった230首(!)に「洞田明子」作の歌を一首加えた上で、一冊の歌集として「太朗」の二人が編集・構成したものである。もうお分かりだろうが、洞田は「うろた」と読み、「太朗」の逆さまである。「洞」の字はホラとも読むので、歌集を手にした筆者はとんだホラ吹き歌集が出たものだと最初は苦笑したが、読み終えた時には、これはかなりの問題作ではないかと考えるに至った。何より恐ろしいのは、存在しないはずの洞田明子の「声」が聞こえたように感じられたことだ。

 その理由は、当然ながら歌集の構成にある。集められた短歌は、仮名遣いも文語・口語も、主体の性別や年齢すらもバラバラではあるが、全ての歌が「駅」をテーマに詠まれている。「太朗」の二人はまず、女性の「洞田明子」を主人公に据え、章立てや詞書を与えることで、幼少期からの成長物語に仕立て上げることで、一首ずつが成立した段階では存在しなかったコンテクストを発生させた。これによって、「駅」があたかも作者「洞田明子」の偏愛するモティーフであるかのように見えてくる。性別の問題は、相手役として「戸綿君」なる人物を登場させ、「戸綿君」の視点から詠まれた(つまり、「洞田明子」が「戸綿君」になり変わって詠むという二重の虚構が施された)章を加えることで克服する。仮名遣いの違う歌も、歌集としてのコンテクストを伴った形で纏められており、何も知らずに読むと「最近旧仮名遣いに変えた洞田明子さんの歌集」として読めてしまう。存在しないのは、文体の独自性だけだ。

 果たして、『洞田』から聞こえる「声」は誰のものなのか。もはやそれは、それぞれの歌の作者(巻末に一覧がある)でも、「太朗」の二人でもなく、歌集のコンテクストによって読者が作り出した架空の人物「洞田明子」の声ではないだろうか。作品の「声」は、ここでは先に挙げた本田の歌とは反対に、読者がいかに読むかによって左右される。ここでは、作品の「私」の方が先に作られていて、読者おのおのがそこに「声」を適宜吹き込むのである。

 換言すると、作品を読む際に「声」の持ち主が既に「いる」場合と、読者が「声」の持ち主に「なる」場合とがあるのではないか、ということである。もしかすると、作者‐「私」‐読者の関係性や、韻律について多くを語るその手前で、作品の「声」について考察する必要があるのではないか――。最近、ぼんやりとそう考えている。

(初出:「現代短歌」2016年7月号、漢数字を一部算用数字に、傍点を付した箇所は太字に改め、年号表記に関する注を[]で示した)

   *

 韻律に関する話は別に書きたいことがあるので、今はひとまず、前半部分に関するあとがきを書こうと思う。「洞田」については割としっかり書けた気でいるが、こちらの方は正直、深め切れていなかったと自分でも思うので色々補足したい。

 先日、「塔」の全国大会のシンポジウム(一般公開分)で、花山多佳子が震災詠に関する議論について、「では震災詠について議論している人たちの何人が、実際に被災した人の歌をどれだけ読んできたと言うのか」と疑問を投げかけた。宮城・福島で刊行されている河北新報の新聞歌壇で選者を務めており、この六年間ずっと、選を通して生身の震災詠と向き合い続けてきた花山の言葉は重い。

 私は、震災詠に関する評論で「塔」の評論賞を頂いたわけだが、その評論に書いた自分の言葉を、花山の言葉を聞きながらずっと思い出していた。

 おのれの記憶をおのれのためだけに詠む、そういう種類の短歌が存在することを否定するつもりは毛頭ない。だが、それらの作品は短歌ではあるが、文学とは言えない。短歌がひとつの文学として、多くの読み手に開かれた上で何らかの影響を与え続けたいと願うならば、短歌創作者はおのずと、単なる個人的な記録以上の作品を作ることを希求することになるだろう。(濱松哲朗「『あの日』から『私』はいかに変容したのか――震災・原発詠から読み解く『私』の諸相」「塔」2014年4月号)

 勇み足な言い方だと我ながら思うが、今になって読み返すと、この時こう書かざるを得なかった苛立ちの根源が良く分かるように思う。

 要するに、この評論を書いた2013年当時の私は、私記録の贈与に対してあまりに無防備ではないかと苛立っていた。自己の体験・経験した物事と、短歌という文学形式を通じて他者に与えることに対して、どうしてこんなにもガードが低いのか、テクストにおける現実と仮構の関係に対して、「伝わってしまう」、「他者に言葉を与えてしまう」という事態に関して、もう少し潔癖になった方が良いのではないかと、小説における震災文学の議論を視野に入れつつ(木村朗子『震災後文学論』や福嶋亮大『復興文化論』が出た直後のことだ)、頭をボリボリ掻いていたわけだ。

 私だって実作者なので、何かの事態に際して歌が出来てしまったり、歌が心の支えになったりする感覚も、勿論分かる。ただ、発表するかどうか、かなり悩むだろうと思う。自分の経験が、言葉を通じて他者に通じる時、言葉にされた〈私〉の経験をどう手渡したら良いのか。言葉にした途端、それはもはや生の体験でも記憶でもなくなり仮構化されるという、ごく当たり前の言語の本質に、当たり前だからこそ辛くなってしまうのではないか、と。

 そんなことを考えながら、全国大会の会場で購入した、塔短歌会・東北支部が発行の冊子『2199日目 東日本大震災から六年を詠む』(2017年7月)を読んでいた。この「日付の冊子」も遂に7冊目かと思うと感慨深い。幾つか歌を引用する。

さざ波の光ははるちやん、えいまくん けふも遊べるたましひの影  /相澤豊子「金のさざ波」
完璧に何かを制御できるとふ思ひあがりに夕暮れがくる  /梶原さい子「禁輸」
この山もあつちの山もうちの山 除染も自分の手でせしが自慢  /小林真代「雨は遠くへ」
忘れればまた見殺しにするようで今年も遺体の歌ばかり詠む  /佐藤涼子「…それでも」

 こういう歌を読んでいると、壮絶な体験をした個人としての〈私〉にばかり目が行きがちになるし、だからこそ「虚構」の問題とかが議論されることになるわけなのだが、ふと、これらの〈私〉は本当に個人なのだろうか、と立ち止まって考えてみる。

 震災から六年以上が経過した。そこで暮らす歌人たちは、自分でも多くのことを行動し思考しただろうが、その一方で、その土地にする多くの人から様々なことを見聞きしたり、ともに経験したりしてきたはずである。その場を生きる、という最大級の取材がこれらの歌の背後にはある(関係ないが、虚構云々で騒がれる作品は大抵、題材に対する取材が甘いのだ)。作者自身が現場にいるということは、自己の経験を常に他者によって相対化され続けることでもある。他者の「声」に対して感度の高い作者ならば、その相対化のレベルはより高くなるだろう。

 その時、歌に詠まれた〈私〉はもはや個人を超えた、その地域に住む人々の心や記憶を結晶化させた〈私〉、より共同体的な〈私〉に近づいているのではないか。一人の人物であるはずなのに、その背後には無数の生きた人間が見えるような、そういう〈私〉であり、単数と複数の間にあるような、けれども単数でも複数でもないような〈私〉。主語が土地そのものに接近していく、とまでは言わないが、土地に住む「私たち」の代弁をしているように見えなくもないのだ。そうした震災詠はもはや「単なる個人的な記録」ではありえない。

 本田一弘作品について、時評で私は「作品から聞こえる『声』が読者の側ではなく、作者個人により近いところから発せられている点に気づかされる」などと、用意周到に作者と〈私〉を区別して書いているが、この時点では、近くはなるが一致することはないと分かっていても、その〈私〉がどんなものであるのかを書き切れずに終わってしまっていた。今なら、方言を用いることで、土地の記憶を〈私〉に集合させようとしているのだと書くだろう。震災詠の「声」は、その土地の経験を伝えようとする語り部の「声」なのだ。

 ふと、佐藤通雅の「昔【むがす】むがす、埒【らづ】もねえごどあつたづも 昔話【むがすこ】となるときよ早【はよ】来よ」(『昔話』所収、【】内はルビ)という歌が思い出される。『2199日目』では、武山千鶴がこの歌を引きながらこう書いている。

 それから六年あまり、作者の、それは「一〇〇〇年先のことだろうか」という思いに反し、浄化されることも無いまま、すでに過去のことにされつつある。そのあまりにも速すぎる現実を目の当たりにするとき、この「埒【らづ】もねえごど」を過去の話、昔話にしてはならないと、強く思うのである。(武山千鶴「らづもねえごど」)

 もっと「声」を聴こう。もしかしたら、この語り部を引き継ぐのは、あなたであるかもしれないのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?