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神聖な場における“畏怖”という感覚

学生の頃から能楽を習ってきて、なによりも幸いに思うのは、
当初、プロの舞台の裏側や、師範のお家のご用などを、内弟子さん達に近い形で経験させていただき(内弟子に先輩が多かったことと、御曹司達と歳が近かったことも幸いした気がする)、
お稽古のみならず、ただ舞い歌うだけではない、舞台作法を叩き込んでいただけたことでした。

私が最も有難いと、あとあと痛感したのは、
神聖な場に触れる際の、しきたりと禁忌を、かなり厳しく、身を以て学び、体感を持って刻み込まれたことだと思います。
これは、プロも素人も関係ない。舞台という神聖な場に接する上で、守らねばならない心得であり、暗黙の法でもあります。
(実際には優しいほうだったと思いますが、ご当主のご指導は畏れ多いゆえに、威風堂々とした舞台の神聖な威圧感は、生半可ではありませんでした)

特に、能舞台の本質的な神聖性と奥深さ。そして、そこに立ち入る上で、気をつけること、してはいけないこと。
神社仏閣にも通じるところと、似て異なる観念もあり、
単に機会を得て、舞台や神楽殿を踏めたとしても、意外に知り得る人は少ない。

舞台の柱それぞれの意味合いや、舞台に上がる際、どこから入り、どこから退き、どこに触れてはいけないか。
扇の扱いはもとより、所作や足の踏み出し方ひとつにも、必ず意味があり、禁忌がある。

主に叱られる…という形で叩き込まれるが、それは単に駄目だとか礼儀に反するという次元ではない。
罰は天から、目に見えぬ形でくだされるが、
罰などなくても、誰よりも自分であやまちを思い知る。
うっかりも許されない。誰に謝っても済まされない。どんな些細なことであっても。
それが禁忌に対する畏怖として刻まれ、氣を研ぎ澄ませて臨む緊張感と真剣さを損なわせない教えとなります。

それらの実際での厳しさを、古代・和歌の研究と同時に経験し、実地踏査で多くの聖域に赴き、尊い伝統の神社仏閣とも関わりを持ち、
さらには宮仕えに入り、雲の上という人と世界に奉職してきたことが、
その後の私にとり、頭で考える、机上で資料を読み解く以上に、畏怖をもって身についた成果です。

たとえ今の世では禁じられなくても、本来はいけない、危ういということを、魂の底から知っていて、自ら制することができる。

これは、今となれば、知識以上の宝と思えます。

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