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理想と現実・聖にひそむ邪

本当に自身を静謐の境地にて、望むところをおこない続けるためには、
人里離れた深山幽谷の地にひとりこもり、自然界の一部となって、命と向き合い、
誰のためでもなく自身が理想とするおこないに、日々の時を費やし続けて、人知れず生涯を終えるのが理想だと思います。

伝説の隠者や仙人、賢人とされるような人々に、その姿の理想があって、
『源氏物語』の光源氏なども、厭世観にとらわれるたびに、そうなりたいと憧れる姿が描かれます。

でもたいてい、実際にそれができる人は、本当の意味で隠者ではなく、
人知れずのようでそれを知る人がいるし、生計を世話してくれる人がいるもので、
だから、雨霜にまみれ飢えて渇々と過ごすことなく、書や楽などに耽溺していられるのが現実。

人として生まれたからには、人として人の世で生きる苦楽から離れては過ごせない。
特に、便利な生活に慣れて生まれ育った現代人には、かつての隠者のような生き方そのものが難しい。そもそもひそめる場所がない。
どんなに頑張っても、人とうまくつきあえず、人並みの技能にも馴染めず、社会不適合者と言われる苦しさがあっても、
せめてもできるのは、架空の物語世界を夢想することくらいだろうか…

❇️
人に理解されずとも、目に見えぬ“何か”のための、人しれぬ果報になっていれば幸せ…そう念じて、琴で和歌を歌うご奉納のつとめをおこなっています。
無宗教・無信心ながら、天地自然界の畏敬畏怖する“何か”に捧げるつとめには、幼少時よりわけもなく憧れていました。

しかし、たとえ神職や僧職となったとしても、
それは実は、一般人以上に人の世のケガレや我欲に縛られ、清らかな理想ゆえに、邪念しがらみに苦しむことになる現実となることを、これまで多く見知ってきました。
むしろ、職掌も肩書もないただ人のまま、おのれ自身の求める境地にて、自分なりのおこないをするほうが、理想に近い。

そうしてたどり着いたのが、追い求め培ってきた、和歌音曲を捧げるつとめでした。

幸いに、表立って何かしないうちから、ご縁があって、身に余るような御神域での機会に恵まれ続けており、
それは、わずかながらでも、目に見えぬ領域の“何か”が求めてくださっている証しなのだろうかと、
有難く、つとめてきました。

けれど、人の世である限り、“何か”を祀る象徴の場には、その前に「人」がいます。
そこを管理する役目の人。
参拝や観衆として、集う人たち。

神遊びの場は、人遊びの場でもあるのだから、当然のことです。
人の中に神がいるとも、古来、言われること。
人に見てもらうのも、大切なつとめだとは思う。

ただ、私のやることは、誰にでもわかりやすいエンタメにはなり得ないようです。
高尚ということではなく、ただ、通じづらいということ。
珍しくみえる美しい琴のねのおかげで、それに触れるだけで喜んでくださる人もいて、それは、目に見えぬ“何か”が人の姿を借りてお褒めくださっているようで、なにより嬉しい限り。

けれど、同じ場に、わかりやすく親しみやすく受け入られやすいエンタメ性の人たちがいて、そちらに関心が集まった時、
私のおこないには、冷めた目が向くのを感じる。
私には、人目をひくような作意も演出もできない。ただ感じることを表すだけだから。
エンタメから私の場になり、その場の冷めた変化に触れ、

ひと目を意識してしまうと、無心で表すことができなくなり、自分の心が、聖の境地から離れていくのを感じる。
それが苦しくなってきました。

せめても、自分に叶うことすらも、
現実の世では、甲斐のないものとされるのだろうか…神様にお喜びいただけているかは、目に見えないからわかりませんが、
その場の空気が答えのように感じると、悲しくなります。

具体的な恩恵としての報奨に繋がるための甲斐ということではありません。
ご奉納はご奉仕ゆえ、仕事にはなり得ないし、恩賞を望むなどおこがましいこと。
もちろん、技芸の評価を強要し求めるわけではありませんが、
私にとってこのつとめは、私が私として生まれ、これまで培ったことが、せめても自分が活かせる意義があったと思える、生きる糧になっていたので、それすらも甲斐がないと感じるのは悲しすぎて。

人の世でひとりの人として生きるには、
自分を抑え個性を圧し隠し、生計のために働かねばならないが、時間と労力と尊厳を搾取され、それでも豊かと言い得る収入が見込める仕事に就くことが、そもそも難しい現実。
副業であれ、技芸を仕事にするには、衆目にとってのエンタメ性や、普遍的な技能に卓越していなければならないけれど、
私には、求められるほどのそれがないことは、自覚しています。

せめてひと目を喜ばせるものが、私にあるなら…でもそれがないからこその私ともいえる。

本来、理想とする“何か”との和合を望む、自分自身のためのつとめは、
誰の目も意識することのない、奥山の樹木や磐座や水源地などを訪ね巡り、または隠れ棲み、天地自然界と向き合いつつ、ひっそりおこなうのがよいのでしょう。
けれども、そこへ赴くのにもお金がかかる。
琴を抱きつつ、何日もかけて歩いて巡行するとしても、昔の上人のように、食を乞いつつ野宿生活をするのは、現代社会では、困難である上、下手したら通報され拘束されてしまう。

生きづらい世の中。
聖につとめようとすれば、むしろ邪に近づく。

私の命運と共に朽ち果てる琴が哀れにも思う。

琴のねのように、風のように、
それが人や世の中に益や恵みをもたらすものでありながら、その恩義目的のためにあるわけではない、無欲無心なもののごとく、
無心無欲で、ただおのれ自身に向き合い、心豊かでいられるだけのものであればよいのに。

たとえば、人との関わりや、生き方暮らし方も、
お金や損得でなく、自分の得意とする分野での生業との交換により、成り立つ素朴なものでなったら…あ、スピリチュアル界の人が思い描く縄文時代って、そういうものになるのかしら。

今、ただ、琴と共に歌い、“何か”と共にあることを求めつつ、生きてあることのみが、
どこへ向かうかわからぬながら、せめてもの私にできること。
どうあるべきか、自分に問いかけつつ、琴と共に歌いつつ模索していくのが課題となります。


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