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『枕草子』眞琴朗詠 第三段「きき耳異なるもの」

第三段目は、シンプルです。

同じ時代、同じ言葉を話していたとしても、
男女や、職種、立場によって、違う言葉のように聞こえる。

この時代、地方によっての方言などは、外国語並みに違うと思いますが、
畿内・都うちや周辺に限っても、「違うなぁ」と感じているわけです。

これは、たとえば近世くらいの京都でも、
御所や公家、武家、町衆、商家、さらに農民などで、
言葉がそれぞれ違うし、地域によっても言葉付きや抑揚が違ったそうです。
いわゆる「御所ことば」を少しかじったことがあり、
今もそれが伝統として残る、さる御由緒寺院にお世話になっていた時、そのことを実感しました。

また、これは私の見解ですが、
言葉だけでなく、話し方や声の調子が、立場によってまったく異なっていたと思うのです。
今でも、僧侶の読経や、神職の祝詞、能楽の語りや、歌舞伎の語り、落語家や文楽などの声調が、それぞれ違っていますが、
当初はそれらが、その身分や立場の人として、生来、身につけるべき特質のようなもので、いわゆる“言霊”文化が時代を経て派生した、職能による言語発声能力のようなものではないかと考えています。
そういう発声による波動発動方法のようなもので、そういう響きを発することで、読経の祝詞による調伏や鎮魂が可能になる、芸能であれば人の心を引き寄せる。
帝の勅命・臣下の奏上、それぞれにも常ならぬ響きが乗り、威が入る。

この時代、文字にも、男文字・女文字、それぞれ区別があったように、男女でも言葉遣いが違っていて、
たとえば姿も、とりかえばやの話が成立するように、かつては今と違い、特に貴人は、服装で男女と年齢や立場(未婚既婚や、成人・壮年・老年)がハッキリ見てわかるよう定められていたから、女の装いをしていれば、実は男が仮装していても、疑われませんでした。

性別や身分立場職種での区別が明確に異なる以外、その区分の中では、比較的、個性は埋もれていた感があります。
だからこそ、清少納言のような自我の強い女性は、よくもわるくも際立ったのでしょう。

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