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ご奉納の姿を描いていただきました✨

私がご奉納しているところを、時間をかけて描いてくださったかたがいらっしゃいました。

昨日、そのかたのFacebookに、唐突にその絵がアップされていて、思いがけなくてビックリし、あまりの光栄に、歓喜にふるえました。

昨年1月に、愛知県春日井市の松原神社様で、
ご縁があり、ご奉納させていただいた時の場面です。

ご神前に真向かう舞台にて、琴を持ち、神鈴を振りつつ、一歩踏み出す瞬間の図。

描いてくださったかたは、この場で写真撮影をなさっていて、
そのかたの知人が私も知っている人だったことから、知人経由でご紹介いただき、
その時の写真データを、後日、いくつかいただいていましたが、

どれも、私自身が意図しない、瞬間を切りとってくださることに、感動する写真ばかりで、
絵のもとになっている場面も、その写真の一枚でした。

ポーズを決めて、作為的に見栄えよくするような演出は、私にはできません。
エンタテインメントではなく、ご奉納としてつとめていることで、無心に動き、おこなっているのみです。

だから、あとから写真をいただくと、自分自身もみたことのないような、
思いがけない、自分とは思えない異次元の自分がそこにあり、身がふるえることが、何度もありました。

この時の写真もそうでしたが、
まさか絵を描いていただけるなんて。

撮影し、描いてくださった、愛知在住の鈴木康二氏は、撮影以降、これをスケッチ画にすることをずっと懸案なされていたそうで、

「今回の写真とデッサンは自分に何かを感じて描いたものです、何時もそうなのですが自分で感じない物は描きません、可愛いから描く、迫力があるから描くのではなく自然体のありのままがそうさせたと思います」
と、おっしゃってくださいました。

何よりのお言葉です。

私は知名度がないし、自分で売り込むことも、綺麗に見せたり演出するようなことも苦手ですが、
不思議に、光栄なことには、恵まれていると思います。

欲がないわけでも、知名度を求める想いも、人並みにあるけれど、
実際にその場に臨んだ時には、頭の中の思考も、何もかもが真っ白になり、無心夢想になって、ただ動くことしかできません。

あとから思い出すと、自分の意識は身体から離れて、少し斜め上あたりから俯瞰している画面が記憶に流れるので、実際に私自身は体とは別次元になっているのかもしれません。

こうした実演は、本当はその現場でじかに観ていなければ、波動や雰囲気的なものは伝わらず、
写真でもわからないことが多いけれど、
鈴木氏のように、技術的にも高く場数を踏まれていて、共鳴共感くださっているかたの写真には、しっかりと残されているのが、心底嬉しくて幸せです。

ただ、作為も演出も意識外のため、エンタテインメント的には地味だし、なんの意味があったの?と言われることも多々あるけれど、

特にご奉納の舞台の時は、対象が人ではなく、神に捧げるためのことであるため、
人の目からどう思われるかに、意識は向きません。
この身も、全心全霊も、神のまにまに。

何度も稽古を重ねてきて、型が決まった舞台であっても、無心夢想で型にそって、無意識下でただ動くし、
即興でおりてくるままの御神前であれば、さらにそれは究極になります。

人として、巧みに上手に演じて称賛されようとするものではなく、
たとえ舞台前にはそうした想念があったとしても、
いったんその場に立った時には、真っ白になる。

私ではなく、私の内側の何かが、そうさせているから、発動する。
それがおそらく、私の利点かもしれません。

誰からもあまねく理解してもらえるものでなくとも、
伝わるべき人には、理屈ではなく、なんらかその人の琴線をはじいている。

いただく写真や、今回のような絵は、
その琴線の響きにより現れたことかと、それが何より嬉しく光栄で幸せで、

「自然体」「意図せぬこと」が、その運や縁を導いてくれている、幸せを実感する次第です。

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