リクルートスーツに袖を通したとき、途端に自分が弱くなった気がした。


お気に入りの9cmのピンヒールも、濃いめのリップも、良く染められた茶髪も、緩く巻いたウェーブも跳ね上げたアイラインも、気分の上がる香水も。
全て奪われた自分が、社会的にとっても脆弱な存在であるように感じて身震いした。

女の子にとって化粧や装いは、「普通に生きるための武装」っていうツイートを見て、なんだかすごくそういう記憶を、思い出した。

高校生の頃、今思えばなんだか黒歴史チックなんだけど、放課後に友人と示し合わせて"コギャル"的な装いになったことがある。
普段よりもずっと派手な化粧に、ミニスカート、ルーズソックスを履いて街に繰り出した。なんにも自分は変わらないというのに、周りの目が少し違って、不思議なお守りを手に入れたような感覚だった。

なんだろう、奇異な存在とかそういうのではなくて。
そうだな、ちょうど言い表すならば、「大人しく見られない」という感覚。
それが普段地味な私には、とっても新鮮だった。

「大人しく見られない」というのは、「攻撃をしたら反撃してきそうな存在」とある種イコールになるのだなということにすぐに気がついた。
化粧が武装になる、というのはなるほどこういうことかなぁと、はたと納得した記憶がある。

大学時代、なにかの発表だとか、自分よりよっぽど頭のいい人たちと大事なミーティングをしたりするときは、Diorのリップグロウに少し濃い目の赤リップをして、目元にはルナソルのシャドウを仕込ませた。
いつもより強めに髪を巻いて、Dianaのハイヒールを鳴らすと、「負けない」気持ちになれた。

「勝つ」のではなく、「強く」なるのでもなく。「負けない」ために、「弱い存在」から抜け出すために、私は化粧をしてきたのだよなと、ツイートを見て改めて思った。

もちろん、純粋な楽しさも見出しているんだけどね。
でも、自分の外見にどうしても自信が持てない私は、化粧をした顔だって好きになれないから、どうしても「私を可愛くする」とかいう概念じゃなくて、「見苦しい顔をマシにする」っていう発想で化粧してるんだよね。

自分のために、自分を好きになれるようなメイクやお洒落が、出来るようになりたいな。今日、なんだか改めてそう思いました。

ひとりごとでした。

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