誰かに認めて欲しくて、僕らは
休職して社会から断絶された世界にいると、
人との関わりがないことに不安を覚えます。
人と関わるのに疲れてしまうこともあるのに、人間とは不思議なものです。
十分に休める環境にあって、
周りの人からもサポートを受けていて、
それでいてもなお焦り、
どこか心許ないこの感覚は、
きっと社会から足を踏み外した自分を
許せない気持ち。
ずっとこのもやもやの正体を考えていました。
仮にお金とか立場とか、
そういうのが全部なんとかなったとして
私は社会に背を向けることができるんだろうか、と。
多分、それは難しい。
だってそれは、なんだか寂しいことだから。
人は常に「認められたい」生き物なのだと思います。
家族に、友人に、社会に、そして自分自身に。
誰かに認められて、選ばれることで
初めて自分の存在価値を信じることができる。
だから人は、社会に関わり続ける必要があるんです。
逃げ恥のみくりちゃんも、言ってました(この前見返した)
(逃げ恥1話より)
これは、言われてみればごくごく当たり前のことなのかもしれません。
心理学者マズローの「五段階欲求」というのが有名ですね。
①生理的欲求
②安全の欲求
③所属と愛の欲求
④承認の欲求
⑤自己実現の欲求
人間誰しもが持つ5つの欲求。
低い数字の順に欲求があらわれ、満たされるとまた次の欲求が現れます。
どの階層の欲求に取り組んでいるかと、その人の健康度は比例するらしい。
社会と関わらないということは、
③から④あたりにかけての欲求が危うくなります。
何者か(何かに所属したひとり)になりたい。
自分の価値を認められたい。
社会から断絶された場所にいるとき、
人はそんな不満を持つのだなぁと痛感しました。
だってこれまでは学生、だとか会社員、みたいな所属の元で、ある程度認められて生きてきたから。(正確には今も会社員なんだけど)
「何者でもない自分」への恐怖って、想像以上だ。
きっと誰しもが、そんな不安と孤独とを抱えて
足掻いて生きているのだなぁと思います。
こんなことを考えているうちに、
ふと「専業主婦(夫)」みたいな
いわゆる家庭で生きる人ってすごいなぁって思いました。
だって承認がものすごく得にくい場所だから。
会社にいたり、学生であったりすれば
良くも悪くも常に評価の世界に晒されます。
もちろん悪いと悪い評価を受けるけど、
良い結果を出せば、成績やお金で認めてもらえる世界は、「承認欲求」を満たしやすい世界です。
対して「専業主婦(夫)」の生きる世界である「家庭」は、何かを頑張ってもその見返りが見えづらい世界です。
本当は家庭を構成する別の人がちゃんとその頑張りに気づいて、認められれば幾分かいいのだけれど、それはなかなか完全ではないことが多いのが現状。
家事はそのほとんどが生きるための維持活動だから、「やって当然」という意味合いが強い、0を0に維持し続ける仕事だからです。
でも、人間って「認められたい」生き物なんです。だから、欲が出る。
幼子を育てる母親が「教育ママ」になることは珍しいことではありませんが、
これは親が社会から断絶された状態であるとき、子どもを通して自己の承認欲求を満たそうとする、ということもあるからではと思いました。
社会から断絶された親は、
子どもを通して社会を見るのです。
もちろん教育にはある一定の労力を割くべきで、いわば「親の義務」でもありますが、
度を超えた介入は、エゴにになりがちです。
「学歴社会」「お受験戦争」など、
親から子への教育が加熱するへの起因は様々あるかと思いますが、
「親が社会から分断されている」というのも一つの起因要素になり得るのでは、とふと考えました。
あと、最近はSNSなどで家事のやり方やこだわりをシェアする家事アカウントや、子どもの成長をシェアする子育てアカウントが多く見受けられます。
以前にも書いたことがありますが、
これまで閉鎖的だった「家庭」という領域がこのようなネットの世界で少し垣間見られるようになったのは興味深いことです。
知恵や知識としての需要がある、のはもちろんですが、
「生活をシェア」することで、これまで断絶されていた社会と繋がることができるのも、
これほどまでにこれらのアカウントが多い要因の一つなのではと思います。
もちろん家庭で生きる人の全てが個人のことをネットに書き出せるわけではないし、
なんらかの事情で社会との繋がりを止めて家庭内だけで頑張っている人もいる。
せめて家庭という領域で頑張る人には、
その頑張りを「認める」声が必要なんじゃないかなって思います。
出来れば、なるべく具体的に。
そして本当は、
誰しもなんらかの形で社会に飛び出すべきなのです。
そこでその存在が認められれば、人は欲求を満たして生きていくことができる。
ここまで書いてきてなんとなくマルチや宗教に突然ハマってしまう人の気持ちが見えてきた気がします。
それらにすがる人々は、「認められたい」気持ちが皆根底にあるのかもしれません。
なんだかダラダラと書いてしまいました。
私がnoteをぽつぽつとあげるのも、
心のどこかに「認められたい」気持ちがあるからに、違いありませんね。
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