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わざわざ言わなくてもよいこと

note767ぺーじ。

SNSのある投稿に対し、「わざわざ言わなくていいことを言うな」という趣旨のリプライがされているのを見た。

もとの投稿は、過激めの内容で、一部の人の気持ちを逆なでするような要素があり、かつ言ったからといってどうなるものでもないもので、確かに「わざわざ言わなくてもよい」ものであった。しかし言ってはいけないものでもない。

SNSとはそんなものでは、が感想で。似たようなリプライがその下にもあり、さらに別の方の投稿でもまた別の方がそのようなリプライをしているところを奇しくも間をおかずして見かけ、驚きもした。

言語化には効果がある。威力がある。

頭に浮かび胸に引っかかり、扱いづらいものもそれを言葉にすればすつきりすることがある。そう簡単にいかずとも、対象を覆う靄(もや)が薄れて対処を考える気力が起きたりする。言語化は物事を扱いやすくする。

古くから多くの人が独り言ち、誰に見せるためでもなく書いて、言葉にすることで物事を乗り切ってきた。それが今はSNSで、多くのユーザが「人にわざわざ言うほどではないこと」を述べるものでは、ト。
(モチロン明確な受け手を想定して目的をもって発信される方も多いがね。)

が、意外やSNSにも随分高度な「外面」が求められるようである。

ところでそのとおり「人にわざわざ言うほどではないこと」がパトロールされているかというと、眺めてみるとサニアラズ。結局は「言う必要があるか否か」ではなく「不快か否か」のようであるが。「不快であるが反論もできず」の場合に発動しやすいとお見受けした。それはそれで容易でないね。

ワタクシもこのnoteで好き勝手書き作っている。トハイエ(このごろは専ら漫画であるがその前は)、「これを書いてどうするのか」「どうもしないが書いてもよかろう」「否書かなくてもよかろう」と迷うことやめることもあり、中には後に「あのとき何を思ったか書いておけばよかった」と思うこともある。

書くも書かざるも自由のなか、何を書くべきか、何を書いてもよいか悪いか。結局のところは自身の内の指標によって書いたり書かなかったりして、今までと変わらないのであるが、チョと気になり、言ってどうなるものでなし、わざわざ言わなくてもよいと知りつつ、本日は書いてみました。


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