見出し画像

変化が苦手で、変化を求める

新学期、今思い出しても苦しい記憶しかない。ざわざわと、エネルギーに満ちた教室で、夏休みの思い出をハイテンションで語り合い、「ひさしぶり」とか、「夏休みどうだった?」とか意味のあるようなないような会話を繰り返す時間。あのなんとも言えない空気が苦手だった。私は友達もいなかったし、中学時代は机でじっと本を読んで、ただただ時間の経過を待っていた。

環境の変化には2つある。1つは自分でコントロールできる変化。もう一つは自分ではコントロールできない変化。私の脳みそは、考え方はASD気質、衝動性はADHD気質をもっているため、自分でコントロールできる変化を常に求めながら、自分ではコントロールできない変化を拒絶する傾向がある。

学校というものはいつも一生懸命に新陳代謝を促そうとするものだ。席替え、クラス替え(いじめの予防もある)、何かしらの変化の中で子どもに様々なことを体験させて成長を促す。しかし、私のような人間にとってそのような変化は、適応への能力資源を大量に消費するだけで、成長どころかマイナスにしか働かない。その分の資源が余っていたら、もっと他に有効活用できたんじゃないかと思えて悔やんでいる。

新学期におこる不登校の問題
もし変化への適応の苦手さによって、登校に困難さの要因があるということが研究で明らかになれば、夏休みに学校という環境と反さないことの有効性についての仮説が立てられるのではないか?
そもそも、夏休みを有意義に過ごすことの難しくなった現代において夏休みっているのか?夏休みに学校での授業時間の確保がないのであれば、学校というプログラムを存続させながら、授業以外の学びを与える時間にしてはどうだろうか?登校時間は同じで、教科書以外のカリキュラムを組み、遊びの時間も盛り込んで、給食をだして下校する。授業に追われず、先生はリラックスして子どもと学びの時間を過ごし、保護者は安心して働き、子どもは規律から少し開放されて学校に魅力を感じることの時間を過ごす。

夏休みの慌ただしさから開放されて少し体が楽になった新学期。登校が始まって荒れる子どもの対応に追われる新学期。右も左も苦難の道。そんな私を救ってほしいという理想を書いてみました。


Instagram


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?