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カテゴライズされない苦しみ

自閉症スペクトラム、ADHD、LD、発達障害といわれる障害。私の息子たちは現段階では自閉症スペクトラム。

そんな彼らの母親である私は、ASDもADHDもLDもどれもあるけれど、診断基準に合致するほどのものではない人である。
時間へのこだわりや、興味の狭さ、対人関係の苦手、不注意、癇癪、依存気質、多弁、過剰適応、低血圧、どれも社会生活を阻害する程のものであった時期もあったが、現在は克服してなんとか生活している。なので発達障害のようなものを抱えながらも、発達障害とは言えない状態だ。それらの特性が社会生活を阻害していた時期は、方法を知らなかったからそのようになっていた。そして壁にぶつかり、その中でスキルとして身につけてきただけのことだ。自分のことがなにかわかるかも?と期待して、精神科の門をくぐったが、、、やはり何かを得ることはできずにWAISを受けて、WAISの結果を郵送で送ってもらうのを待っている。結果はわからないが受けてみた感じでは、あんまり凹凸はなさそうな気がする、、、という感じだった。

診断基準に至らない程度の特性を持っている私は、生きづらさをずっと抱えている。それらの特性によって、自己肯定感がとにかく低い。幸福感を感じにくい。

IQ検査で凹凸があまりない息子たち。彼らもスキルを身に着けていけば、いづれは診断基準に至らない発達障害っぽい物がある人となるのだろう。きっとIQの高さで、そのあたりの苦手をうまいこと表面だけ取り繕う能力を身につけることはできるのであろう。
では、「私のような生きづらさをかかえて生きるのか?」
きっと彼らはそうはならないだろうと楽観視している。

私の場合、養育環境が複雑(両親は複雑な子ども(私)を相手に適切な養育の仕方を知らなかったので仕方ない)だったこともあり、息子たちよりも多くのものを抱えてしまっているのかもしれない。

なにものにもカテゴライズされない人の会でもつくって、生きづらさの研究でもしてみたい。細分化されて専門性が高まり極まってしまった現代において、何もにもカテゴライズできずに、どこにも属せないような人が溢れかえっているように感じる。不登校児の問題のカギもこのあたりにあるようなきがする。カテゴライズされない人たちが、社会的に認知されれば、カテゴライズされ社会が改善され、少しは生きやすくなるのかもしれない。

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