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先入観は、未来を決定付けるための観測者効果

これはTwitterへの2023年1月8日の連続投稿へ、更に本日幾つかの加筆・編集を施した投稿内容となります

もう簡単に左右されない精神が養われてきました。これが3.11から12年目の今年に感じたことです。結局のところマスメディア洗脳とかって言っていたことは自分自身の暗示だと分かりました。現象面に現れた自分の心の問題が現世の社会に現れて出ているのです。全てはそこに気付く為であると気付きました。

つまり私は先入観をこれまでずっと誤って見てきました。本当の先入観とは【先に】結論などを【入れて観ること】だったかもしれないのです。つまりは読んで字の如くで、結論を入れるか心配を入れるか希望を入れるかでは、先入観の効果も大きく違ってくるのです。中には実は自分が決めて入れていました。

私がこっそりと近代哲学の父と言われているデカルトの言った「我思う故我あり」をずっと信じています。これはこの世の存在理由だと言えます。ただ大切なのは、この存在理由には決まりが無いのです。何故存在するかとか、何のために存在するかとか、それは何のためなのかなど全てにおいて未決なのです。

「何故存在するか?」と「何のために存在するか?」と「何のためなのか?」は全て問いの対象が違っています。

①何故存在するか?→存在そのものの理由
②何のために存在するか?→存在の責任所在
③何のためなのか?→理由の内容。

以上を考察すると、どれも理由は同じではないことが分かります。違います。

「そんなもの気のせいじゃないか」と思うこともできます。しかし、そこを深く見つめる者にとっては、どれも問いが違っているのです。ここまで掘り下げておいて言うのもなんですが、これらの問い自体も「自分が思う故」湧いてきた問い掛けだと言えます。つまりこれらは先入観以前に観測者効果なのです。

先入観は、未来を決定付けるための観測者効果】だと言うならば分かり易いかもしれません。しかも先に述べた通り、先入観は先に見入って観ることなので、では何を観るのか?が決まっていないとも言えます。先入観自体が手垢の着き過ぎた語彙なので、この語彙の意味を見直すことで価値観が変化します。

何も決まっていないところに決まりを変数として入れることができるということは、未来の決定事項をどの様に変更させるかについても自由だと言えます。しかも、そこに気付くと先取りするので、それをするとそれまでの過去も同時に遡って変化してしまう効果すらあると分かってきたのです。凄い効果です。

「そんな訳あるか!」と思うならば、それは無くなります。逆にそれを肯定できるとそうなります。あなたはどちらが良いですか?そういう未来に於いてまで影響のある観測者効果としての先入観を掘り下げて観てみた訳です。これを言うととても恐ろしいと思われると思いますが、呪文そのものだと思います。

私がこの連続ツイートの最初に述べた通り、世界をどの様に観ているのかが、その人の人生を先入観で決定してしまうのです。これはとても恐ろしいことです。ここまで掘り下げて分かることは「先入観はいけない」ではなくて、良い方向に使うべきだと言うことです。何故なら世界を観念で拘束するからです。

世界を自分から拘束する力を持っているということは、即ち自分から世界を解放することすらできると言えます。しかも過去に遡って大きく変化させることすら可能なのです。一体どんな魔術だと思うかもしれませんが、そのくらい観念は全体に関わっている大きな問題であり可能性でもあるのです。事実です。

自分をどの様に見せるのかは、相手にどの様に見て貰うかの操作術の一つだと言えます。見せるというと外見を想像し易いと思いますが、それだけではありません。言動や行い全てが相手のあること総てに関連して影響を持ちます。これはマスメディアが影響力を軽んじていないこととも深く関連した部分です。

相手とのコミュニケーションだけに拘らず、実は世界全体にそれが及んでいるというのが私の気付きだと言えます。想いに気を付けないと世界を滅ぼすことにもなると言えます。そう想えば、自分の思い込みを如何に整えることが重要かと分かってくると思います。これは大袈裟な話ではなく真の魔術なのです。

これらの私の書いていることの真意を理解してくれている方々ならば、これらの重要性が凄く分かって貰えると信じています。これらに誰もが気付いた時に世界は大きく引っ括り返るポテンシャル(潜在性)があります。自分自身から発動できる最大の行動は実はこの部分ですね。全世界は自分から変化します。

陰謀だと決め付けることは、即ち自分の視点を陰謀説に預けることを意味します。そして自分の視点から物事を捉えられなくなってしまうのです。何故ならば、陰謀をやっている奴らのせいだ!と自分以外の人のせいにしてしまうからです。これがとても残念な結論であると言うのはお分かり頂けると思います。

何故ならば、自分以外の者は、実は自分の心が生み出しているキャストだからです。人のせいにするのは、自分の殻の中から出ようとしないだけなのです。つまりは鏡で自分自身の顔を見たくないと思っているのと一緒なのです。自分の中にそんな醜い姿がある訳がないと思いたいのは心情としては理解できます。

しかし観測者効果は、その誰かに責任転嫁した自分の化身を発生させて、そのまま鏡写しにして返してきます。それは恰(あたか)も投げたボールがそのまま自分に跳ね返ってまた自分に当たってくる様な現象です。更にそれを陰謀と呼んでいるのが陰謀説なのです。全ては陰謀では何も解決しない原因と言えます。

陰謀説は説明に必要な視点は与えてくれますが、自分自身の観測者効果であることにはなかなか気付かせてくれません。それこそが誰かのせいにすることに捉われた視点だからです。全ては自分が観測したからこその表れであると認識できない限り何度一生を費やしても同じことを繰り返す因縁ですらあります。

この繰り返しもそこに捉われ続ける限りは好き嫌いと一緒で、それが好きならそれに拘り続ける様に自分自身が示され続けます。自分の仕業であると気付かないだけ厄介なのですが、私は更にその視点を俯瞰した訳です。つまりそう観ている人がいると観ている自分の仕業を発見したのです。これも鏡なのです。

「そういう見方している人いるよね〜!」と言っている人を生み出すのも、また自分だったのです。このリピートが機能している限り、自分がまだまだ捉われていることに気付くのです。自分自身の鏡とのキャッチボールが全てを生み出していることの発端であると気付かないと、この視点も永遠に続きます。

終わらないかの様に見える、この視点のループもいづれ終わりが見えてくるでしょう。二元論の中にこの世があることは、日本つまり二本建ての論理の国が表と裏からの両面性に気付かせる為に存在しているのです。世界の始まりにまで戻って、観測者効果でそこを変えることを念じることすらも可能でしょう。

念じることが全ての始まりです。観音とは音を観ると示されていますが、音を観る時に自分が観ている限り、この世との関与からは抜け出ることができないように見せているのです。見せているということはそう観なければ抜け出ることができるでしょう。この世との関係性は全て自分の想いを念じる想念です。

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