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捻くれポジティブでありたい秋の夜。

いつの間にか夜が長くなった。まさに秋の夜長というやつである。
オフィスを照らす白い灯りは"邪悪"だが、ポツポツと浮かぶマンションの橙色は、どこか懐かしみを帯びた心地良さがあると、薄暗い帰り道の中、不意にそんなことを考えた。

しかし、"家庭の灯り"がいつもいつも温かみのあるものばかりではないことは、私もよく知っている。

かつての子供時代、私は母親から「いつからそんな捻くれた考えするようになったのよ、昔はもっと素直だったのに」と、落胆にも近い叱りを受けたことがある。子供ながらにすべてが嫌になり、無気力、無表情、無神経を全力で"演じて"いたのだろう。いわゆる"反抗期"がなかった子供だが、反抗する気すら無くしていただけだったのではないかと、今では大変滑稽な過去の記憶が蘇る。

さて、時は経ち現在。
両親からの仕送りも断れるようになり、"とりあえず"社会人としてそれなりの生活を送っている私であるが、かつての母親が危惧した私の"捻くれ"は、今もなお形を変えながら、私を私たらしめるひとつのアイデンティティとして、ひっそりと大切にしている。

あれよあれよという間に、自分も大人になってしまったが、歳を"取る"というより、歳を"貰う"と表現したい。
冬は苦手、暑い日差しが照りつける夏が大好きではあるが、"日が短い"というより、"夜が長い"と表したい。

単なる"言葉遊び"ではないか、と言われてしまえばそれまでだが、日頃食べるごはんが血となり肉となるように、日頃発する言葉は、その人の人間性や環境を構築すると信じている。

私は確かに"捻くれ者"である。
物事をすぐ穿った目で見てしまうし、深読みし過ぎてしまう癖がある。そうして去ってしまった友もいるが、それにもまた哀愁らしさを感じ、そっと静かに連絡先を消したこともあっただろう。

あらゆるものが飽和状態の世の中で、"自分"を見出すのは至難の業である。モノというモノが縦にも横にも繋がり、情報という情報が縦横無尽に飛び回る。隣の人に話すネタは無論、話し方ですら誰かの真似事のように感じてしまう現代、それはたとえ"捻くれ"であったとしても、私は私らしい考えを持っていたいと思う。

私はこれを"捻くれポジティブ"と呼んでいる。捻くれであれ、ポジティブであれ。思考する者であれ、善く生きる者であれ。と、ここまで書いたところで、インターホンの音。実家からみかんの箱が届いた。

両親へのメールは、"荷物受け取りました"というより、"ありがとう"

"ありがとう"というより、"みかん美味しい。今夜の月も綺麗だね"と送りたい。

秋の夜、皆さんはいかがお過ごしですか。

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