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笑いの根源はやっぱり知識なんだよなぁ。

わが人生において、お笑い芸人を目指そうなんてことは一度たりとも考えたことがないが、笑いってなんだろう。ユーモアってなんだろう。という疑問を抱くことは多い。

親世代と比べると、わたしたちの世代には「お笑い番組」の数が少なかったというが、「イロモネア」「エンタの神様」「爆笑レッドシアター」「LIFE~人生に捧げるコント~」なんかはいつも放送を楽しみにしていた記憶がある。めっきりお笑いの舞台はネットとラジオに移り、テレビ番組から"お笑い"は消えた気さえするのだが、いわゆるお茶の間の人々は、いま何で笑いを補っているのだろう。テレビを持たない生活をはじめて、わたしはもう6年経つが、未だに「テレビが欲しい!」という感情が湧いてこないところを鑑みると、そういうことなのかなぁと冷めた気持ちにもなってしまう。

さて、そんな「お笑い」についてだが、その特性から人々の反感を買う結果を招くことも多い。
「笑う・笑わせる」という行動には、何かその対象を馬鹿にする行為、下に見る行為、蔑む行為と直結することがほとんどだ。そういう感情を一切抜きにして、その場のテンポ感とか、音の様子、言葉の流れや遊びだけで笑いを誘う場合もあるが、たとえそうした笑いの取り方であったとしても、それが何かの意味を成してなければ面白くはない。その意味付けには、結局"馬鹿にする行為"が含まれるというのが笑いの実態だと思っている。

言葉としてあまり良くはないが、「馬鹿にしているか/馬鹿にしていないか」「面白いか/面白くないか」を左右することは間違いないと思う。
東大王がクイズに全問正解することは凄いことだが、それは別に面白いことではない。頭が良い人がクイズに答えられなかった、答えを知らなかった、という"馬鹿の側面"が垣間見えて初めて人は「面白い」と思うのではないだろうか。
これは何も東大王が嫌いとかそういう話ではない。単にお笑い番組が減ってクイズ番組が増えたよなーと、ふと思ったゆえの例え話である。ぼーっと生きてんじゃねー!って言われるから、みんな面白がれるんでしょ、ということである。

だが、これを踏まえてもう1つ重要なポイントがある。人々の「面白いか/面白くないか」を誘発する"馬鹿な行為"は、そこからさらに細分化することができ、それは「知識が伴っているか/伴っていないか」という二択の側面が存在する、ということだ。そしてこの知識の有無が「面白いか/面白くないか」よりも一層深い、「笑えるか/笑えないか」に直結する問題だと、わたしは考えている。

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整理するとこうだ。(※あくまで持論)

笑いとは、その対象を「馬鹿にする」行為であり、
「馬鹿にしていること」=「面白い」
「馬鹿にしていないこと」=「面白くない」

加えて「面白い行為」=「馬鹿にする行為」は、知識の有無によって笑いの線引きがなされる。
「知識が伴っている馬鹿な行為」=「笑える」
「知識が伴っていない馬鹿な行為」=「笑えない」

こういう公式ができあがるのではないだろうか。


これは皆さんが日頃経験する日常の場面で考えてみよう。

自分より仕事ができるやつと、仕事ができないやつがいたとする。
できるやつにこき使われて、恐れ入ります~って言う立場と、
できないやつに命令して、お前は馬鹿だな~って言う立場、
面白いのは後者である。

だが、その"面白い"立場を俯瞰して見たとき。
できる先輩とできない後輩の仲の良い関係性知っていれば笑えるし、知らなければ笑えない。もちろん逆も然り。悪い関係性であることを知っていれば到底笑えることではないし、知らなければ笑えてしまう。

そういう意味で、「知識」と「笑い」は直結するものだと思うのだが、いかがだろう。

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なぜ急にこんな話をしているか。
ここからは少しばかりセンシティブな内容になるが…
ここ数日、わたしにとって立て続けにショックな出来事があった。
緊迫したイスラエル・パレスチナ情勢に関わる出来事だ。

笑いの話からなんだよ…と思うかもしれないが、今まさに同じ地球上で起きている戦争を、犠牲者が出ている戦争を、笑いのネタとして表現してしまった者たちがいるのだ。配慮に欠けた仲間内の盛り上がりを発信してしまった者たちがいるのだ。わたしはその者たちが創り上げる世界が大好きだし、その者たちのことを心から応援していた。だからこそ、ショックが大きい。

だが、これを単に悲しいだとか、不快だといって、当人に批判のコメントをぶつけていても仕方がない。特に戦争や紛争に関する出来事は非常に難しいもので、その時の時代や情勢が変われば、絶対的な正義も簡単に揺らいでしまう。1つの側面だけを見てああだこうだと結論付けることができないのが、戦争の恐ろしさでもある。

それでも1つ言えることがある。
それが先述した「知識」と「笑い」の関係性だ。
今回わたしがショックを受けた出来事のほかにも、「知識の欠けた笑い」によって、新たな犠牲者、心の傷を負った人たちがたくさんいるだろう。これは笑えることなのか、笑えないことなのか、目には見えない「知識」というパワーが、その線引きを明確に表すことは、いつ何時誰の身にも起こるのである。

恵まれた国に生まれ、守られた環境に身を置いていると、戦争なんて"馬鹿なこと"やってるんじゃないよ~と、"面白がれる"ことはあるだろう。
いや、私は決して面白がってなんかいません!と胸を張って答える人もいるかもしれないが、何のためらいもなく「爆弾ゲーム」と名付けたり、「飯テロ」という言葉が言えたり、「戦争ゲーム」でランクを競ったり、そういう身近な言葉ひとつを取ってみても、無意識に面白がれていることは事実だろう。
とはいえ、これはわたしも同じであり、それはある意味恵まれた場所に生まれ育ったことによる文化でもある。ゆえに、これ自体は取り立てて非難するべき問題ではない。(もう少し表現にひとつひとつに気を配れたらいいな~とは思うが。)

やはり問題は、知識が伴っていない馬鹿なこと=「笑えない」ことを平然とやってのけてしまうことだ。

社会風刺や時事ネタのお笑いは面白い。特に戦争や紛争なんてことを気にも留めない恵まれた者たちを前に、痛烈なカウンターパンチを食らわせるお笑いは、まさに「馬鹿にしているか/していないか」の土俵において、情け容赦なく「馬鹿にしている」ネタである以上、まごうことなく面白い。が、知識の無さはその面白さをいとも簡単に無に帰することができる。

「笑える」とはそれだけ崇高な事象であり、一方「笑えない」とはとても残念なことなのだ。特に表現することや、人を喜ばせたい、笑わせたいという価値を大切にして生きている者たちは、より一層その意識を持って生活していて欲しいと思ってしまう。知識の無さは、笑えないどころか、こうして人々の関心を削ぐ結果にもなりかねない。そのパワーを侮ってはいけないのである。
で、お前はどうなんだ、と言われてしまうと、わたしだってまだまだ未熟な存在で、世の中は知らないことに溢れているがゆえ、その知識の無さ(もしくは偏り)から、「笑えない」何かを生み出してしまうことがあるかもしれない。

それでも「笑いの根源は知識である」、という事実を忘れないように生きていきたいと思う。馬鹿なことをやって面白がるのと、知識があって笑えるのとでは、同じ笑いでもそこには大きな差があると、わたしは信じている。

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ちょっと真面目な話になりすぎたかもしれない。だが、こうしたセンシティブな内容もまた、わたしの大好きなエンターテインメントやポップカルチャーの1つの側面である。結局いつも同じオチだが、わたしはただただ愛すべきエンタメを、心から楽しみたいという、その一心なのだ。

今回の悲しき出来事は、海を渡った先の異国のお話である。振り返って我が国を見てみれば、そもそも「戦争」について(良くも悪くも)声を上げている人すらいない。それはそれでどうなんだ…と思う日々ではあるが、日本人の奥ゆかしさは、そう簡単に我が物顔で自分の意見を主張しないところである。だが、物静かな立場を貫いたとしても、笑いの根源である知識だけは蓄えておきたいところだ。豊かであれ、何事も。



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