見出し画像

Cowra Breakout

しっちゃかめっちゃかな世の中なので忘れていたが、昨日8月5日はカウラ事件が起きた日だった。ほとんどの日本人は知らないと思うが、オーストラリアと日本という関わりではかなり重要な事件だった。

カウラ事件(カウラじけん)は、第二次世界大戦時の1944年8月5日に、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラで起こった日本兵捕虜脱走事件。捕虜収容所の脱走事件としては、史上最多の人数(日本人収容者数1,104名の内、545名以上)と見られる。死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、日本人負傷者数108名。(出典:Wikipedia)

オーストラリア在住で大学で歴史を専攻していた私としては、重要な場所である。
カウラの町はこれまで3回訪れているが、4年前に訪れた際の記憶をたどりつつこの文を書いてみたい。

カウラまでの道

カウラは、シドニーから西へ250キロほどの距離にある。人口1万人、農牧業が主な産業の町。昔走っていた鉄道もとうの昔に廃止されているので、行くとしたらどうしても自分で運転していくしかない。

シドニーの街から西へ向かうハイウェイをひたすら走る。観光地として有名なブルーマウンテンを越えてまた坂を降りると、ときおり通り過ぎる小さな町以外はなだらかな丘がどこまでも続く。単調な風景にだんだん見飽きてきた頃、カウラの町に入った。

カウラの町自体はどうということはない。店舗がならぶメインストリートがいくつかあり、学校やコミュニティクラブがある。典型的なオーストラリアの田舎町だ。

カウラ第12戦争捕虜収容所

そんな町を抜けてしばらく車を走らせると、捕虜収容所跡地がある。ここに至るまでの道は、Sakura Avenue と名付けられ、実際に桜の並木が植えられている。いつか実際に桜が咲く季節に訪れてみたいものだ。今ではゆるい坂になったただの草地で、フェンスが所々に張られている。

画像1

ただ、当時のフェンス跡が今でも残っているので、多角形だった収容所の区割りが何となく分かる(グーグルマップで見るとはっきりと見える)。また、収容所の建物跡なのだろうか、コンクリートの基盤があちこちに残っている。

公道から入ってすぐの場所は一応展示場のようになっていて、事件についての説明、収容所の見取り図、当時の監視塔のレプリカがある。

それにしても、周りはなにもない。いくら夜闇に紛れて脱走したとしてもサーチライトで照らされてしまえば逃げも隠れもできないので機関銃の餌食になるだけだ。

南半球の冬である八月は、朝晩はぐっと冷え込む。内陸にあるカウラのような場所はそれはなおさらで、もしかしたら大地には霜が降りていたかもしれない。真っ昼間で、晴れ渡った空の下で、私は目を閉じて真夜中に突如沸き起こった突撃ラッパの音や吶喊、それに呼応する機関銃の音をが想像してみようとした。

この脱走事件については書かれた本も色々あるのでここでは触れないが、私はあまりにも日本人的な事件だと、どうしても脱力感を感じてしまう。

日本兵の大半は、戦場で捕虜にはなったものの九死に一生を得たわけだ。捕虜になっての待遇もそれほど悪くはなかったので、捕虜の多くは最初は負い目はあったものの、収容所での生活を続けるうちに、生への執着が強くなってきたはずだ、ひとりの人間として。

それが、一部の強硬論者が論じる勇ましいタテマエに引きずられ、それは違う、と思ってもおおっぴらに言えず、無記名投票をしたにもかかわらず大多数が自分の本心に反し、その場の「空気」に押されて「脱走(=死)」という選択をしてしまった。

そのような行動をとった捕虜たちを、犬死にだとか、気が弱いとか、当時はそれが普通だったとか、私たちが高みに立って断罪することはたやすいことだ。
でも、それは本当だろうか?この事件から76年も経っているが、こういった思考経路は、なにも変わっていないのではないか?とくに昨今の世の中を見るとそう思う。

(断っておくと、こういった傾向は、ある種の人間の集団にはどこでも起こりうると思う。が、日本人、日本人社会ではそれが顕著に現れるような気がする。)

カウラ日本人墓地

次に日本人墓地を訪れた。この事件では多くの捕虜が命を落としたし、戦争が終わり帰国を待つ間にも病気で亡くなった捕虜たちがここに葬られている。

画像2

日本の墓地とは違い、同じサイズの墓石が等間隔に列をなして並んでいる。

その墓石には亡くなった年月が刻まれているが、1944・8・5の日付が圧倒的に多い。そして、刻まれている名前は、本人の名前でないことが多い。日本兵は捕虜になったことを恥じたため、尋問された際に偽名を使うことが多かったからだ。

画像3

本当の名前を残すことも叶わず異国の地で亡くなった人たち。その当時はそれが本望、と思っていたのだろうが。

結果論になるが、あと1年過ごせば戦争は終わり、皆生きて日本に帰ることが出来ただろうことを考えると、更にこの事件は何だったんだろう、と空しさを覚える。

きれいに刈られた緑の芝生には、ニセアカシアの花びらが盛大に散っていて、心を癒やしてくれた。

カウラ日本庭園

カウラ事件はまさしく悲劇だが、悲劇のあとにも花は咲き、実を結ぶ。この地にはこの事件を契機として日本との繋がりができ、日本庭園がつくられた。

画像4

回遊式の本格的な日本庭園だが、庭園の先に拡がる景色はまさにオーストラリアだし、この場所に元々あった自然石や植物も使われているので、その融合が素晴らしい。庭園は丁寧に整備されていて、ゆっくり歩いてまわると先程訪れた収容所跡や日本人墓地で受けた悲しい気持ちがだんだん浄化されていくのが分かった。

画像5

カウラは平和なオーストラリアの田舎町。でも、ここを訪れた人は戦争というものの悲劇、そしてその後の融和ということを学ぶことができる。われわれ日本人にとってはなおさらだ。

これからも、このようなことを考えていきたい、と思う。