ただ「正しい側」に居たかっただけの話

日々の習慣。

継続100日を超えたポケモンスリープのリサーチを進めて寝ぼけ眼を光に慣らす。

水分補給やトイレから、昨日洗って乾いた食器の片付け、朝食の支度や片付けを、普段周回している3、4つのゲームアプリを回りながらこなす。

その休憩や手の空いたタイミングで、ふと、SNSを開く。
そのまま最初の画面をスクロール。アルゴリズムに「おすすめ」としてまとめられたタイムラインや、10年以上前に引っ越した地域の人々がストーリーで共有する日常やニュースの断片を。
タップ、ロール、スワイプ。

人の泣き顔。銃声、爆音。ニュースのアンカー。訴える人々、言葉。行き交うヘッドライン。
イノセント・ピープル。テロ。デモ。環境活動家。平和を、祈りを。

静かな家。静かじゃない画面に影響されて騒がしくなる心、感情。


進撃の巨人の最終話を見た。
漫画を読了した時は放心してしまって上手く思考を紡げなかった。何をどう思っていいのすらつかめなくて。
でもアニメで、いろんなセリフや尺があって、何十何百ものひとが何時間もかけて作り上げた線、色、音楽、言葉のおかけで、感情をより素直に動かすことができて。

その晩。
彼が聞いた、共和党の大統領候補を決めるためのスピーチで出た発言をきっかけに、何度目かになる世界情勢の話をして。

今までは、とにかく「私と同じような人たち」が理不尽に死ぬのは嫌だとしか言えなくて。
何をもって同じとするのかは、よくわからないけど。でも言葉とか見た目じゃなくて、ただ、世界にさしたる影響を及ぼすこともないかもしれないけど、平穏な日常を過ごしていたいと思うだけの、無知で無力なただの人、のような。

でも進撃でいろんなことが頭を巡った後は、テロを消し去ることなんて可能なのか、だとか、結局何をもってテロとするかっていう、ラベル付の問題でしかないのか、だとか、そんな言葉を投げかけることも少しできて。
でも結局、彼には私のそばにいてほしい、と落ち着くしかなくて。


いろんな仮定のシナリオを想像したりして泣き疲れた後、暗闇に慣れた視界で天井を捉えて思った。


結局さしたる影響を持つことももたらそうとすることも無いような私が、なぜこんなに気を揉んでいるのかと。

そう問うたことで、答えが出た。
ただ私は、自分かわいさに、内在する恐れから己を守るがために、正しい側にいようとしてるだけではないか、と。

カルマや業と呼ばれる概念がある。悪いやつは地獄に落ちる…かは分からないけれど、悪いことをしたら自分に返ってくる、「バチがあたる」という考え。

きっと私の行動、というより思考原理はそこにある。
なかよしで毎月読んでいた地獄少女で「人を呪わば穴二つ」と繰り返されていたように、例えば、他人の不幸を願えば自分へ不幸が返ってくるのではと畏れているからこそ、自分の大切な人々が平穏に日々を過ごせますようにと祈りを捧げる。

自分へ特別いいことが返ってくるという気はしないけど、せめて今のような、今までのような平穏な日々がこの先も保たれるように、と。


私は、「自分のせい」になることを畏れている。
例えば、「私が悪い娘だったから実父は浮気したのだ」、というような。
そんな言説を否定したいがために、私は「良い娘」であろうとする。私は娘としてはよくやってきた。だから私に責任はない、と言い逃れたいために。

子供の頃、成績もいいんだし医者を目指せばと言われた。人の命を預かるなんて嫌だと答えた。人を救う功績より、人を死なせたことのほうに呑まれる気しかしなかった。
世界のことでそんなに色々と意見を持つなら政治家になればと言われた。なったところで汚職やさまざまな権力に絡め取られず正しくあり続け、その上で自分の身も心も守り切る自信がない。理想の道を歩き続けるための道筋が一つも見えなかった。無理だよと答えた。

きっと今もそこから変わってないのだろうと思う。
付け加えるなら、業やカルマと呼ばれる原理から逸脱するような現実を突きつけられているから余計に心をかき乱されるのだろう。

その「バチ」が下るほどの「悪いこと」を、苦しんでいる人みんながみんなしたのかと言えば、きっと違うのではないか、と。
じゃあこの世にそんなフェアな理なんてなく、すべては無意味で無秩序なのかと、無神論者への反論を失った聖職者のように立ち尽くしているだけなのかもしれない。


去年か一昨年、フランスの絵本作家の本を図書館で手に取った。タイトルが思い出せないが、世界大戦の前中後と日常が続いたり乱されたりする、けれど例えば海水浴に行った日などを綴るもので、戦争が起きている間やその前後の、なんでもない民間人の日常を綴ったもので、
アンネの日記やストライプパジャマの少年とは違って、もっと私が経験してきた日常にずっと近かった絵本。

ホロコーストについて戦時中の民衆はどう受け止めていたのだろう。これは間違っていると必死に抗って実際に何人もの人を救った偉人も、すごい人だけどただの人だった。でも自分の身を守る自信すら碌にないくせに怖がりで不安しいで緊急時動けそうにない自分は、直接知らない人のために自分の身を危険に晒すことができない。それを選ばない。だって、正しい側にいたいと思う動機の源は、自分かわいさだから。自分が危険に晒されたくないから。
そのくせ人の絶望の表情に涙を流す。
心が動いたって、足が動かないなら何の意味があるのだろう。


きっと、自分は大勢に影響なんて及ぼせないと思うことでその可能性さえ封じて、
それで無力だちっぽけだと自分をカテゴライズすることで、
それを免罪符にして、自分と自分の日常を生きさせてくれと傲慢で自己中心的な望みを正当化しようとしているんだと思う。

やっと、少しは実のある診断を自己に下せたような気がする。自己の理解、とされるような言葉づけ、ラベル貼りが、少し進んだ。

そのことについてどう思うか、それはまだ 分からない。

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