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慢性疼痛をもつ家族と暮らして 2

(1からの続き)母が「脊髄硬膜損傷後の慢性疼痛」に苦しむようになって15年ほど。その間に知ったこと、考えたことなどを整理してみる。

●生活の大変化

 一年のうちでいちばんの繁忙期を越えたころ、父は突然亡くなった。寒い冬の朝だった。57歳であっという間に死んでしまうなんて予感は家族にはなかったし、父自身もびっくりしたことだろう。
 母は父より2歳若く、2人の子は独立していたものの、大学2年の子(私のことだ)と寝ついて10年以上になる義母を抱え、途方にくれたと思う。なにしろいままで人生の舵取りは夫まかせだったからだ。
 数か月の休みをへて、母は学生だった私とおそるおそる店を再開した。幸いなことに父が経済的なめどを立ててくれていたから、いま思えば営業再開は日々を生きるハリであり、親族などに対する責任からであったような気もする。日銭を得られるのは大事なことだったけれど、むしろ、店じまいへ向けた儀式、人生の次のステージへうつるための助走期間だったようにも思えてくる。母にも私にもだ。

●我慢強さがあだになるの?

 3年ほどして店をたたむことになるが、そのころ、義母が亡くなった。
日本語はややこしい。この「義母」とは、私の父にとっての生みの親であり、母にとっての義母であり、私にとっての祖母のことだ。
 私たちの人生における彼女の存在、家庭の雰囲気を書いておく。
 施設やケアワーカーの力をかりず、自宅で介護をするのがスタンダードだった時代。とくに父は粘着質ともいえる関わり方でその母を大事にしており、家族にもそのような対応を求めた。存在を軽んじていると感じ取れるふるまいがあると、強くなじられるため、家庭の空気はピリピリとしていた。
話が脇道にそれるようでいて、しかし重要なこととして、父の妹(私にとってのおば、母にとっての小姑)の存在もまた家族に緊張感を及ぼしていたことにも触れておきたい。父とその妹はひたすら仲が悪かった。家の外にいても罵り合いが聞こえ、持ち物を壊したとか階段からつき落としたとかで、警官が来る事態まであった。結局、私が高校入学したころ、おばは家を出ることになる。父が亡くなる5年ほど前だ。
 商売、介護、親族の不仲と、子どもから見ても家庭はなかなかの修羅場だったが、父と母は話し合っているようには見えなかった。母はただ黙って、たんたんと父に従い、働いていた。余談だが、母はお産のときも声をころして痛みに耐えたという。

 商売、介護から解放され、末の子も店を離れて社会人となり、60歳手前でたぶん初めて母は「自由」を手に入れたと想像する。ボランティアや小旅行、孫の世話などで動き回っていたようだが、61歳で突発性難聴。そのころから体調を崩して、動悸やめまい、神経痛などで苦しみ、心療内科、シックハウスの専門外来にもかかるようになった(当時ちょうど家を新築した)。 夫が亡くなって元気になる妻は多い、そんな話も聞くけれど、母の場合はそんなタイプではないようだった。一気に生活状況が変わり、喪失感も大きく、人生をもてあましているようにも見えた。主体的に生きる訓練を積んでこなかった女性には、かえって酷な日々だったのかもしれない。そんな性質が病気を生んだように思えてならないが、関連性はわからない。関連付けたくなるけれど、それは乱暴。

●血腫が? 腰から下が動かない

 不調ながらも日常生活を送っていたところ、脊髄硬膜外に血腫ができた。母66歳。ある朝、腰に鈍痛を覚え、みるみるうちに下半身の感覚がなくなり動かすことができなくなった。
 長男が救急車を呼び、ERへ。私も病院へ駆けつけ、血腫を掻き出す緊急手術をすると説明を受けた。手術は無事終わり、そのまま入院。リハビリ病院へ転院し、幸いなことに半年ほどかけて感覚と運動能力をとりもどすことができた。血腫ができた理由はわからなかった。

●「痛み」は遅れてやってきた

 体の機能をとりもどしてから、じわじわと母は痛みに苦しむようになった。入退院を繰り返し、救急車で搬送されたことも数回あった。足から腰にかけて「熱いアイロンをぎゅうぎゅうあてられているよう」「針山の上を歩くよう」「閉じかけたドアに挟まったよう」「ピンヒールで踏みつけられているよう」「今日がいちばん痛い」といい、「孫の世話すらしてやれない」と泣いていた。お産にも無言でのぞんだ母だが、四六時中痛みを訴えてくる。
 手術もリハビリもうまくいったはずで、医師からは、痛みはとか「一度ダメージを受けた神経が痛みを覚えている」「実際はなんともなっていない」といわれた。家族は「好きな外出などをして気分転換すれば」「お母さん神経質だし」などといった。痛みを訴えても軽んじられ、母は孤独で、絶望感もあっただろう。和室の欄間にひもをたらして自死しようとした、とは後に本人の口から聞いたことだが、私はあまりにショックを受けて、その場に立ち会ったかのような鮮明なイメージをもっており、いまだに怖くなる。
 線維筋痛症とかリウマチに近いのかなとも思ったが、そうとはいわれなかった。検査をしても原因となるような所見はないが、神経になんらかのダメージが残っているということで、「脊髄損傷後の難治性疼痛」とそのまんまの診断名がついた。ネットや書籍で、交通事故などで脊髄を痛めたあと、時間をおいてひどい痛みが出てくるケースがあると知った。どの方の痛みの表現も壮絶だった。

 所見がない、原因がわからないということは、病の実体以上に不安をもたらす。どうすれば改善するのかわからないし、明日どうなっているかの見通しもたたない。精神的な不安定さは痛みをますます強いものにするように見える。
 痛みは外見からはわからない。詐病といわれることもあり、人に理解されないぶんつらいと聞く。マイナーな病気でともに嘆く人がいないことも、痛みを強くする原因だと思う。
 「こんなに痛いのに歩いて大丈夫?」「足が壊れちゃうんじゃない?」という恐れから運動を控えることも、症状を悪いほうに転じさせる。痛いは痛いが、神経の問題であって運動機能が悪化することはない。若いうちから健康だった人はセルフイメージの変化に耐えるのがきついが、どんなにみっともない(と自分が思う)恰好であっても歩くこと、外に出ることが肝要だ。

(3へ続く)


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