野良翻訳:「おお、香雪」

「おお、香雪」は、中国の女流作家「鉄凝」による短編小説。1982年に発表され、のちに映画化もされた鉄凝の代表作であり、上海では高校の国語教科書でも採用されています。文化大革命終結(1978年)後、ようやく現代化の機運が生まれ、閉塞と貧困に苦しんできた人々に希望が芽生え始める当時の中国の空気を描きだした名作です。

もし列車が発明されていなければ、もし誰かが山奥にレールを敷きにこなければ、この台児溝(タイウーコウ)というちっぽけな村落が気付かれることはなかったでしょう。
この村と、そこに棲みつく十数戸の人々は、山脈の折り目の中にしっかりと隠れこんでおり、春から夏へ、秋から冬へと、山々が意のままに与えてくる温もりや横暴を、ただ静かに受け止めてきたのでした。

しかし、そこへ二本の細長い、キラキラ輝くレールが伸びてきたのです。
それは山腹を勇敢に旋回しながら、こっそりと探るように進み、
何度も回り道をしたのち、ついに台児溝のそばに巡りついたかと思えば、
すぐに暗いトンネルに飛び込んでしまい、また一つ山を越え、神秘に包まれた彼方へと駆けてゆくのでした。

しばらくするとこの路線は正式に開通しました。
人々は村の入り口に群がり、あの緑色の龍が雄たけびをあげ、
山の外から連れ込んできた馴染みのない、新鮮な風を吹かしながら、
この路線はの貧弱な背中をかすめてさっさと過ぎてゆくのを眺めるのでした。
急いで走り去ってゆくその様は、まるで車輪がレールを通るガタンゴトンの音さえも、「停まらん、停まらん!」とさけんでいるようでした。
それもそうでしょう。この台児溝に留まる理由なんてあるのでしょうか。
台児溝から遠出をする人でもいるのでしょうか?
山の外から台児溝に見舞いに来る人でもいるのでしょうか?
あるいは、石油が採れたり、金鉱が埋まってたりでもするのでしょうか?
どう考えても台児溝は、あの列車をそばに留めさせるだけの力を備えていないのです。

しかし、いつの時からか、ついに「台児溝」という駅が列車の時刻表に追加されていました。
たぶん乗客の中にちょっと偉い立場の人がいて、ちょうど台児溝にゆかりがあったから、提案をしてくれたのかもしれません。
たぶん台児溝の十七、八歳くらいのきれいな少女たちが、列車が駆け抜けるたびに村の入り口に群がり、列車を一心不乱に、貪欲に見上げているのを、あの愉快な男性乗務員が見つけたからかもしれません。
彼女らは車両を指さしたり、お互い押し合いながらキャッキャとはしゃぐ声が聞こえてくることもありました。
あるいは、たぶん何の理由もなく、ただ単に台児溝が小さすぎて、
それはもう心が痛むほどに小さすぎて、
あの鋼鉄の龍ですらそれの前ではとても威張りきれず、ついにはその脚を止めざるを得なかった、それだけなのかもしれません。
とにかく、台児溝は列車の時刻表に載り、毎晩七時に、首都から山西省へ向かう列車が、ここに一分間だけ停まることになりました。

このたった一分間が、台児溝の静けさをすっかり覆してしまいました。
以前、台児溝の人々は晩ご飯が済んだら、まるで山の声なき命令を同時に聞こえたかのように、すぐに布団に入ります。
すると、台児溝一帯の石造りの小屋たちも、同時にふっと静まり返るのです。
その深く、厳粛なまでの静けさは、まるで山におのれの敬虔さを黙々と訴えているかのようでした。

それが今では、台児溝の少女らは晩ご飯が食卓に並んだとたんに慌ただしくなるのです。
彼女らは心ここにあらずのようすで適当にご飯を頬張り、お椀を置くとすぐ身だしなみを整えはじめます。彼女らは一日中打ち付けられた黄土と埃を洗い流し、粗くて血色の良い素顔をみせて、髪をぴかぴかになるまで梳き、競うように一番いい服で着飾りました。
年越しでしか履かない新しい靴に着替えたり、こっそりと顔にお化粧を塗ってくる子もいました。
列車が来る頃はもうすっかり暗くなっているのですが、彼女らはそれでも自らの意のままに、服飾や容貌をじっくり気遣っていました。
そして、村の入り口の、列車が通る場所へ駆けていきます。
香雪(シャンシェ)はいつも一番乗りで家を出て、隣の鳳嬌(フェンチャオ)が続いてついてきます。

七時になると、列車は息を荒げながら台児溝に向かって滑り込み、続いてガタゴトと音を鳴らし、車両が一瞬揺れたのちに、ようやく動かなくなります。
少女たちは心を躍らせながら寄っていき、まるで映画をみるように窓からのぞき込みます。
香雪だけは後ろに隠れこみ、両手で耳をしっかり塞いでいました。
列車を見るときは一番前を走るのに、列車が来るといつも一番後ろに隠れこんでしまうのです。
彼女はあの巨大な先頭車両を少し怖がっていました。
雄壮に白い息を吐く先頭車両は、まるで台児溝をぺろりと腹の中に呑み込んでしまえそうに思えました。
あの天地を揺るがすような轟音も彼女に恐怖を与えました。
あれの前では、彼女はまるで根も張れてない雑草のようなもの。そう感じるのです。

「香雪、来て来て、ほら!」鳳嬌は香雪を引っ張りながら、ある婦人の頭上を指しました。
指さした先は、婦人の頭につけられた金色の輪でした。
「あたし、何も見えないよ?」香雪は目を少し細めます。
「あの中のほうにいる人よ、あの顔がまん丸の。あら、腕時計もあるわよ!爪よりも小さいのねぇ!」鳳嬌はまた新発見があったようです。
香雪は何も言わずに頷きました。彼女はやっと夫人の金色の輪っかと爪よりも小さい腕時計を見つけました。
しかし香雪もまた別のものを発見します。
「皮の鞄…!」
彼女は荷物置きに置かれている、茶色い人造革の、いたって普通の学生カバンを指さしました。
小さな都会でも随所に見かけるような学生カバンです。

少女たちは香雪の発見にはいつも興味がないのですが、それでも寄っていきます。

「ああ、もう!あたしの足踏んでるわよ!」鳳嬌は声を上げて、押し寄せてきた少女の一人を責めます。彼女はいつも大げさな子でした。
「なに叫んでるのよ、あの色白兄さんに構ってもらいたいんでしょ?」責められた少女も退きません。
「口を裂いてやろうかしら!」鳳嬌は悪口を言いながらも、その目は無意識に三番目の車両の扉に向かって眺めていました。
あの色白な若い乗務員が、期待どおり列車から降りてきました。
彼は体が大きく、髪は真っ黒、そして純正な北京語をしゃべります。
それが理由なのか、少女たちの間では彼のことを「北京語」と呼んでいました。
「北京語」は腕を組んで、少女たちからつかず離れずの距離から呼びかけます。
「おい、そこの小娘たち、窓にくっつかないで、危ないから!」
「ほほう、『小娘』だって。あんたはもうお年寄りのつもりかしら?」鳳嬌は大胆に言い返しました。少女たちは大笑いしながら、誰かが鳳嬌をぐっと前に押し出すと、危うく彼の体にぶつかってしまうところでした。
しかし鳳嬌はかえって大胆になり、さらに尋ねました。
「ねえ、あんたたちはずっと列車に乗ってて、目が回らないの?」
「天井についてるおっきな刃物みたいなのは、何に使うの?」もう一人の少女が聞きます。車両の中についてる扇風機のことを言ってました。
「水はどこで沸かせてるの?」
「道がないところに着いたらどうするの?」
「あなたたち都会の人は一日何食ご飯があるの?」香雪も少女たちに続いて、細い声で尋ねます。
「困ったもんだな!」「北京語」は少女たちに囲まれて、途方に暮れてしまいました。
列車がそろそろ出発する時刻になると、彼女らはようやく道を譲って彼を行かせました。
彼は腕時計を見ながら扉に駆けていき、扉のそばまで着くと振り返って、
「また今度、また今度教えてあげるからね!」
二本の長い脚でひょいと列車に上り、続いてガタゴトと鳴りながら、緑色の扉が少女の目の前でずっしりと閉ざされます。
列車はすぐに暗闇の中へ飛び込んでしまい、彼女らは冷たいレールのそばに置いてきぼりになるのでした。
しばらく経っても、だんだんと遠ざかってゆく振動が未だに伝わってきてました。

そうして全てはまた静寂に戻るのでした。切なくなるほどの静寂。
少女たちは家に戻りながら、他愛もない事で言い争います。

「頭についてたあの金色の輪っかは何個あったか知ってる?」
「八個。」
「九個。」
「違うでしょ!」
「違わないし!」
「鳳嬌は幾つだと思う?」
「あいつはまだ『北京語』のことを考えてるのよ!」
「そんなわけないわ。言った人こそ考えてるでしょ」鳳嬌は言いながら香雪の手をきゅっとつねりました。香雪に味方してほしいという合図です。
香雪は何も言えず、顔が赤くなるほど慌ててしまいました。彼女はまだ十七歳で、こういう時どう擁護すればいいのかまだ学んでいません。
「あの人は本当に白い顔してるよね!」先ほどの少女はまだ鳳嬌をからかいます。
「白い?あの緑屋敷の中に籠ってたらああなるわよ。台児溝に何日か住まわせてみればいいわ。」暗闇の中でもう一人の少女が言います。
「そうよ、都会の人は籠ってばっかり。色白といえば、うちの香雪と比べてみるといいわ。うちの香雪は、生まれつきいい肌で、加えて列車に乗ってるお姉さんみたいに、髪をくるくるに曲げてあげれば、まあ!『困ったもん』だわ!鳳嬌姉、そう思わない?」
鳳嬌は答えず、香雪の手を放します。少女たちが本気であの乗務員を貶めているように思えてきて、心の中で少し彼に代わって不平を抱きました。
根拠はないけど、鳳嬌は彼の肌は決して籠って白くしたのではなく、生まれつきそうなんだと思うのです。
香雪はまたこっそりと手を鳳嬌の手のひらに戻して、鳳嬌に握らせます。まるで彼女のせいで鳳嬌がいじめられてしまい、鳳嬌に許しを乞うているようでした。
「鳳嬌、喋れなくなっちゃったの?」あの少女はまだ言います。
「誰がよ!あんたらみたいに人の顔が黒いだの白いだのばっかり、気にしたりしないのよ。そんなに好きならあの人についていけばいいじゃない!」鳳嬌は強気です。
「私らじゃお似合いじゃないもの!」
「あの人にお相手がいないとは限らないでしょ!」

途中でいくら喧嘩しても、別れるときはみんな友好的です。
なぜなら、彼女らの心の中で、心が躍るような思いが再び浮かんでくるからです。
明日になれば列車は再び来て、彼女らには再び素敵な一分間が訪れます。
それに比べれば、喧嘩なんて大したことじゃないでしょう?

ああ、この色とりどりの一分間には、台児溝の少女たちの喜怒哀楽がどれほど詰まっているのでしょう!

更に日がたつと、この色とりどりの一分間は、ますます色彩が増してゆくのでした。
この一分間内に、少女たちはくるみ、卵、ナツメをいっぱいに積んだ長方形の編みかごを提げて車窓の下に立ち、せっせと乗客と商売をするようになりました。
彼女らはつま先立ちで、両手をめいいっぱい伸ばし、かごいっぱいのたまごやナツメを窓のそばまで持ち上げて、台児溝では珍しい細麺やマッチ、および少女たち自身が使う髪留めや石けんと交換しました。
たまに、家族に怒られる危険を冒して、色とりどりの頭巾や、伸び縮みできるナイロン製の靴下と交換することもありました。

皆は鳳嬌を意図的にあの「北京語」に割り当てているみたいです。
鳳嬌はいつもかごを提げて「北京語」を訪ねました。
彼と商売をするときは、わざとぐずぐず時間をかけて、列車が発車する時間になってから卵をかごごと彼に押し付けるのでした。
彼がまず卵を受け取って、次会ったときにお金を払いに来てくれれば完璧です。
もしも細麺一束や、頭巾二枚を持ってきてくれたのならば、鳳嬌は必ず少し抜き出して彼に返してあげました。
そうすることが、彼との付き合いにふさわしいと、彼女は考えているみたいです。
このような付き合いは、普通の商売と区別があってもいいよね、と。
たまに鳳嬌も、少女たちの話を思い出します。
「あの人にお相手がいないとは限らないでしょ!」
でも、お相手がいるかいないかなんて、自分には関係ないこと。
別に鳳嬌は彼についていきたいとは思っていません。
それでも彼女は彼に良くしたいのです。
お相手どうしじゃないと、そんなことをしちゃいけないのでしょうか?

香雪は普段口数は少ないし、怖がりですが、
少女の中では一番商売が順調でした。
乗客たちは香雪の品物を買うのが好きでした。
なぜなら、彼女はとにかく相手を信頼しきった目で人を見つめるのです。
今車窓の下に立っているあの女の子は、まだ「騙される」という言葉を学んでいないことを、
あの水晶のように透き通った瞳が物語っていました。
彼女はまだどうやって値段を交渉するのかわからず、「お任せます」としか言いません。
まるで一分間前に生まれたばかりのような顔、赤い絹のような柔らかい唇を眺めるだけで、心の中からやさしい感情が湧いてきてしまうのです。
こんな少女の前で、こすい真似ができる人はいないでしょう。
彼女の目の前では、どんなけちんぼでもたちまち大らかになってしまうのでした。

たまに香雪も、隙をみて上客たちに外のことを尋ねてみることがありました。
北京の大学は台児溝出身の人を受け入れるかどうか、「音楽付き詩編朗読」とは何か、など(教室で隣の子の本で偶然見かけた言葉みたいです)。
ある日、眼鏡をかけた中年の婦人に、自動で開閉する鉛筆箱について聞き、価格まで尋ねていました。
しかし相手が答える前に、列車は発車してしまいます。
香雪は列車をかなり遠くまで追いかけました。
秋風と車輪の轟音が同時に耳元で鳴り響くようになってから、彼女はようやく立ち止まり、自分の行動のおかしさに気づくのでした。

列車はあっという間に見る影もなくなります。
少女たちは香雪を囲んで、列車を追いかけた理由を知ると、とてもおかしく思いました。
「バカな子ねぇ」
「大したことじゃないのに!」
彼女らはまるで年長者みたいに香雪の肩をたたきます。
「あたしがぐずぐずしたせいで、訊き遅れたんだわ。」香雪自身は「大したことじゃない」とは思ってなく、自分が急がなかったことを悔やんでいました。
「もう、ほかにいくらでも聞けることがあったでしょうに!」鳳嬌は香雪のかごを持ち上げながら言います。
「うちの香雪は学生さんだからね」香雪を擁護する子もいました。
おそらく、まさに香雪が学生だからなんでしょう。
香雪は台児溝で唯一中学に受かった子でした。
台児溝に学校は無く、香雪は毎日十五里(約7キロ)離れた公社に通っています。
香雪は生まれつき喋るのが好きではありませんでしたが、台児溝の子たちとはまだ喋れました。
しかし公社の中学では話せる子なんていません。
女子はそこそこいるのですが、彼女らの一挙手一投足、ちょっとした目つきや軽い笑いが全て、香雪は小さいところ、貧しいところから来た、という事実を彼女に突き付けているようだったのです。

女子たちは香雪にわざと繰り返し尋ねるのでした。
「ねえ、あんたのところは一日何食ご飯を食べるの?」
香雪は意図がわからず、いつも大まじめに答えます。
「二食。」
そしてまた友好的に彼女らを見つめて聞き返すのです。
「あなたたちは?」
「三食よ!」
彼女らはいつも胸を張って答えました。同時に、香雪のこういう鈍さに対して言い表せない同情と鬱憤をおぼえるのでした。
「あんたはなんで学校に鉛筆箱を持ってこないの?」女子たちはさらに聞きます。
「あれがそうでしょ」香雪は机の隅を指さします。
女子たちも、本当は隅に置いてあるあの小さな木箱が香雪の鉛筆箱であることを知っているのですが、わざと驚いたような様子をしてみせるのです。
すると、香雪の隣席の子は、自分の大きな発泡プラスチック鉛筆箱をパタパタと鳴らすのでした。
それは自動で閉じることができる鉛筆箱でした。
香雪はかなり後になってから、あれが自動的に閉じることができるのは、鉛筆箱の中に小さな磁石がついているからだということを知りました。
一方香雪の木箱は、大工である父親が、娘が中学に受かったときに特別に作ってくれたものでした。
台児溝には一つしかない宝物です。
でも、隣席の子の鉛筆箱と比べると、どうしてあんなに不細工で、古臭く見えてしまうんでしょう?
その木箱はパタパタ音の中で、恥ずかしがるように机の隅に縮こまっていました。

香雪の心は静まらなくなってしまいました。
彼女はふと、クラスメイトの度重なる質問の意図を理解し、台児溝がいかに貧しい場所かを理解しました。
彼女は初めて、これは恥じるべきことなのだと気づいたのです。
貧しいから、クラスメイトはしつこく彼女を質問攻めにするのだと。

香雪は隣席の子の鉛筆箱を見つめました。
たぶんそれはとても遠い大都市から来たもので、きっととんでもない値段なんだろうな、と考えました。
たまご三十個で交換できるかな?それとも四十個?五十個?
そしてまた心がずしんと沈んでしまいます。どうしてこんな事を考えてしまうのだろう?
母さんが苦労して集めたたまごなのに、こんな変なことに使おうとするなんて!
ああでも、あのパタパタ音が魅力的すぎて、どうしても耳から離れない!

山風がだんだん厳しくなる深秋の時期になると、そらが暗くなる時間もだんだん早まってきます。
しかし香雪と少女たちは、欠かさず七時の列車を待ち構えていました。
彼女らは鮮やかな綿のコートを着れるようになりました。
鳳嬌の頭は淡いピンク色の、有機ガラスの髪留めを付けており、
また後ろ髪に編み込みのヘアゴムをとめた少女もいました。
全部、たまごやナツメを使って列車から交換したものです。
彼女らは列車に乗っている都会の少女を真似て、おしゃれで自らを武装し、鉄道の隣で整列しました。
まるで遠方から来た上客を迎えるようで、あるいは検閲を待つ兵士のようにも見えました。

列車は停まったとたん、まるで台児溝の寒さに愚痴をこぼすかのように、深いため息をつきます。
この日、列車は台児溝に対して、めずらしく冷淡な態度をみせました。
車窓は閉まりきって、乗客は黄昏のような照明の下でお茶を飲んだり、新聞を読んだりしていて、だれも窓の外に一瞥しようとしません。
ここでよく見かける、この路線をよく使う人たちも、まるで台児溝の少女たちを忘れてしまったかのようでした。

鳳嬌はいつものように、「北京語」に会いに三号車に向かいました。
香雪は紫色のマフラーをしめて、腕に提げているかごを持ち替え、一緒に列車に沿って走りました。
香雪は車内の人に見つけてもらえるように、おもいきりつま先立ちをしましたが、車内は誰も気づきませんでした。
しかし、香雪は食べ物がたくさん置かれたテーブルに、自分がずっと欲しかったものを発見したのです。
それを一度目にしただけで、香雪はもう前に進めなくなってしまいました。
彼女はかごを置いて、胸をどきどきさせながら、両手を窓枠にくっつけてよくみると、たしかにあれは鉛筆箱でした。磁石がついている自動鉛筆箱です。
それがいま、手を伸ばせば届きそうな近くにあるのです。

中年の女性乗務員が近づいてきて、香雪をどかせました。
香雪はかごを持ち上げて、遠くから眺め続けました。
あれが窓際に座っている女子学生らしき少女のものだと判断すると、香雪は迷わず駆けていき、窓ガラスをたたきます。
女子学生は振り向いて、香雪が提げているかごを見ると、申し訳なさそうに手を振り、窓を開ける様子はありませんでした。
すると、香雪は何かに背中を押されたかのように、車両の扉に駆けていきます。
扉の前に立つと、一気に手すりにつかまりました。
駆けているときは、まだ気持ちに迷いがあったのかもしれませんが、車両の中から漂ってきた暖かい、列車特有の空気が心を奮い立たせてくれたおかげで、香雪は「北京語」のようにひょいと列車に上りました。
彼女の計画は、全速力で車両に駆け込み、全速で鉛筆箱をたまごと交換することです。
この数秒間で列車に上がる決意ができたのは、彼女がたくさんのたまごを持っていたからかもしれません。四十個もあるんです。

香雪はいま、列車の中にいます。
かごをしっかり持ち、車両の中に向かって慎重に第一歩を踏み出します。
するとそのとき、列車がふと揺れたかと思うと、車両のドアが閉まってしまいました。
香雪が事態を理解した時には、列車はもうゆっくりと台児溝に別れを告げ始めていました。
香雪はドアにしがみつき、鳳嬌の顔が一瞬見えました。
どうやら夢ではないようです。全部現実で、いま自分はまさにみんなと離れ離れになってしまい、この見知ったようで見慣れない列車の中に放り込まれたのです。
香雪は窓ガラスをたたきながら、鳳嬌に向かって叫びました。
「鳳嬌!どうしよう、どうしよう!」

列車は容赦なく香雪を載せて走り続け、台児溝は一瞬で置いていかれました。
次の駅は西山口(シーサンコウ)といって、台児溝から三十里離れたところです。

三十里という距離は、列車や自動車にとっては大した距離ではありません。
乗客が世間話をしている間に、西山口に到着しました。
この駅で何人かの乗客が列車に乗り、そして一人だけ列車から下りました。香雪です。
彼女の腕に提げていたかごは、あの女学生の座席の下に押し込んだので、もうありません。

列車の中で、香雪は顔を赤くしながら、たまごで鉛筆箱と交換したいことを女子学生に告げると、女子学生もなぜか顔を赤くしました。
彼女は何が何でも鉛筆箱を香雪にあげると言ってゆずりませんでした。
それに彼女は学校の食堂でご飯を食べているから、たまごを持ちかえっても食べきれないよ、と言うのです。
香雪に信じてもらうために、彼女は自分の胸元にとめてあるバッジを指さしました。そこには確かに「鉱冶学院」の文字がありました。
けれど香雪は、相手は自分を慰めてるだけだと思っていました。学校のほかに家がないはずがないのに!
香雪は鉛筆箱を手に持ちながら考えました。
いくら台児溝が貧乏でも、香雪は他人の物をタダで得たことはありません。
出発する数秒前に車体が揺れだす頃、けっきょく香雪はかごをぐっと女子学生の座席の下に押し込み、さっさと列車を降りたのでした。

列車の中にいたとき、乗客たちは西山口で一晩泊まってから台児溝に戻ればいいと、香雪に提案しました。熱心な「北京語」は、彼の妻の親せきが駅に住んでいると教えてくれました。
しかし香雪は泊まらなかったし、「北京語」のその親せきを訪ねようとも思いませんでした。
「北京語」が話してくれた事は、逆に香雪を切ない気持ちにさせました。それは鳳嬌のための思いでもあるし、台児溝のための思いでもありました。
同時に香雪は、はやく村に戻って、明日は胸を張って学校に行き、胸を張ってカバンを開き、「アレ」を机の上に置きたい、という思いでいっぱいでした。
乗客たちは、香雪がかつて列車の雄たけびにおびえた小鹿のように慌てふためいた姿を知らないし、山で育った女の子が山と闇夜の前でどれほどの力を持っているのかも知りません。

列車はすぐに西山口駅から消えてしまい、香雪はまたしても空っぽな場所に取り残されてしまいました。
冷たい風が吹いてきて、彼女の華奢な体をゆさぶります。香雪は肩のマフラーを頭に巻き付け、体を縮めてレールの上に座り込みました。
香雪はこれまで色んな怖さを経験してきました。
小さいとき、香雪は髪の毛を怖がる時期があって、体に髪の毛がくっついてなかなか払えないときは、焦って泣き出してしまうほどでした。
大きくなっても、夜中に一人で庭に出るのが怖いし、芋虫も怖いし、人にいきなりくすぐられるのも怖いのです(鳳嬌がいつもやってることです)。
今、香雪はこの見慣れない西山口が怖いし、周りの黒く染めあがった山が怖いし、肝を冷やすような静寂が怖いし、風が近くの林を吹き抜けるときに、カサカサと鳴る木の音が怖い。
三十里を歩いて帰るには、こんな林をいくつ通らなければならないんだろう!

満月はのぼり、静まりきった山を照らし、灰色の道路を照らし、秋を感じさせる枯れ草、乾ききった枯れ木、群がる棘、ねじれた岩、野を覆いつくす樹木の軍隊、そして香雪の手の中できらきら光る小さな箱を照らします。

そこで香雪はようやく思い出し、鉛筆箱を掲げてじっくり観察しました。
さっきまでずっと列車に乗ってたのに、なんで取り出してじっくり見なかったんだろう?
そして今、潔白な月明かりの中で、ようやくそれが黄緑色であることがわかりました。
箱のふたには二輪の真っ白な蓮が描かれています。
香雪はふたをゆっくりあけて、またあの隣席の子みたいにそっとふたを押し戻すと、パタッと、しっかり閉まりました。
香雪はふたたびふたを開けて、なにか中に入れなきゃ、と思いました。
そこでポケットから顔に塗るクリームを入れる小箱を取り出し、鉛筆箱に入れて、またふたを閉じました。
この時、香雪ははじめてこの鉛筆箱が自分のものになったような感覚がしました。
明日学校で、クラスメイト達にもう一度質問されればいいなと、香雪は考えていました。

香雪は立ち上がると、ふと心の中が満たされた感覚がしました。
風もずっと柔らかくなりました。
気付けば月はなんて明るくて純潔なんだろう。
山々は月明かりに覆われて、まるで母親のやさしい懐のようでした。
乾ききったナツメの葉がまるで鈴のように、風にあおられてらんらんと歌いだす声が聞こえます。
香雪は生まれて初めて、林の夜中の歌声に耳をすますのでした。
香雪はもう怖くありません。枕木の上で、大股歩きで前に歩き出しました。
山はこんな風だったんだ!お月様はこんな風だったんだ!
ナツメの木はこんな風だったんだ!
香雪はまるで、自分を育ててくれたこの山を初めて知ったような感覚を味わうのでした。

じゃあ、台児溝は?
香雪は無意識に足を速めました。まるでこれから初めて見に行くような新鮮な気持ちで、いますぐ台児溝の姿を確かめたくてたまりません。
台児溝も、きっと「こんな風」になるんだ。
台児溝の少女たちは、もう誰にも懇願しなくて済むし、クラスメイトの再三の質問に答えなくてもよくなる。
列車に乗っている立派な男たちは、みんなこちらまで訪ねてくるし、列車ももう少し長く止まってくれるでしょう。
たぶん三分間、四分間、あるいは十分、いや八分間。
列車はすべての窓を台児溝に開け放し、今夜のような状況になっても、みんな余裕をもって列車から降りれるようになるはずです。

そういえば、今夜台児溝に何が起きたのでしょう?
そう、列車が香雪を連れ去ってしまったのでした。
それなのになんでこんな余裕ぶったことを考えてるんでしょう。
たまごを四十個もなくしてしまい、母さんはなんて言うのか。
父さんは毎日誰かが嫁入りするような状況を願ってたはずです。
そうすれば彼には仕事がいっぱい来て、銅のような背中を晒しながら、昼夜問わずに着物入れや食器棚、引き出しを作って、香雪の学費を稼ぐことができる。
ここまで考えて、香雪は立ち止まってしまいました。
月明かりも心なしか陰りだしてしまい、足元の枕木がぼやけてきます。
帰ったら、なんて言えばいいんだろう?
彼女は見まわすと、山々は沈黙していました。
ふたたび近くの林を覗くと、林はカサカサと音を立てるだけで、熱心に助けてくれるようすはありません。
何処からか、水の流れる音がします。
探してみると、レールから数メートル離れた場所に、浅い小川が流れていました。
香雪はレールから降りて、小川のそばでしゃがみ込みました。
彼女は小さい頃のあることを思い出します。
ある日鳳嬌と川辺で洗濯をしているときに、ごま飴を売るおじいさんに出会いました。
鳳嬌は上着を一枚、飴と交換しようと香雪に提案しました。
上着は、川に流されちゃったとお母さんに言えばいい、と唆すのです。
香雪はごま飴がとても食べたかったのですが、結局交換しませんでした。
あのときおじいさんがずっと待っててくれたことも、よく覚えています。
なんでこんな小さなことを思い出したんだろう?たぶん今度こそ母さんに嘘をつくことになるからでしょう。
鉛筆箱の重要度は、ごま飴とは比べ物になりません。
香雪は母さんに教えてあげるのです。これはふしぎな宝箱で、これを使った人はなんでも願い通りになって、大学にも通えるし、列車に乗ってどこまでも駆けていける。欲しいものは何でも手に入るんだと。
そしたらもう誰も、毎日何食食べるのか聞いてこなくなるんだ。
母さんはきっと信じてくれる。香雪は嘘をついたことがないのだから。

考えているうちに、小川の歌声が高々と聞こえてきました。
それは歓声を上げながら駆け抜けていき、水中の岩にぶつかって時々小さな水しぶきを上げていました。
香雪も行かなければなりません。
彼女は小川の水をすくい上げて顔を洗い、また濡れた手で風にかき乱された髪を整えました。
水は冷たかったですが、香雪は元気が出ました。
小川に別れを告げると、また長いレールに戻ります。

すると今度は、トンネルに出くわしました。
まるで山が大きな目玉を見開いているように、そこに立ちはだかっています。
香雪はふたたび立ち止まりましたが、戻りませんでした。
彼女は抱きしめている鉛筆箱を思い出し、クラスメイト達の驚く目を想像しました。
彼女らの目がまさにあのトンネルの奥でキラキラ輝いているように思えてきます。
香雪は腰を曲げて枯れ草を一本抜き、後ろ髪に挿しこみました。お母さんによると、「邪気を払ってくれる」のだそうです。
そして香雪はトンネルに向かって駆けていきました。
全力で駆けていきました。

走ってるうちに、どんどん熱くなってきます。
香雪はマフラーを外して、首に掛けました。
何里ほど歩いたんだろう?
草むらのキリギリスがたえず鳴きながら、教えようとしてくれてるのですが、彼女にはわかりません。
台児溝はどこだろう?
香雪は前を眺めると、黒い点がいくつかレールの上で動いているのが見えました。
もう少し近づくと、それが人だとわかりました。
香雪に向かって歩いている人でした。
一番前にいるのが鳳嬌で、台児溝の少女たちが後ろについてきています。

香雪は、いますぐ走っていきたいのですが、なぜか脚が異様に重くなってしまいました。
彼女は枕木の上に立ち、まっすぐ伸びたレールを振り返ると、
レールは月明かりに照らされて淡い光を放ち、香雪の旅路を冷静に記録していました。
香雪はふと、心がいっぱいになって、よく分からないまま泣き出しました。
それは喜びの涙、満足の涙でした。
厳しくも優しい山を目前にして、香雪の心の中は今までにない誇りが沸き上がりました。
彼女は手の甲で涙を拭きとると、後ろ髪にさしていた草を外して、鉛筆箱を高く掲げながら向こうの人の群れへと駆け出しました。

その時、少女たちの喜びの叫びが突然谷間に鳴り響きました。
彼女らは香雪の名前を叫びました。
なんて奔放で、熱烈な声なのでしょう!
彼女らは飾らず、傍若無人に高々と笑い声をあげました。

古い山脈はついに感動に震えあがりました。
山々は広大で深遠なやまびこをならして、彼女らとともに歓声をあげるのでした。

ああ、香雪!香雪!

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