未曽有因縁経巻下

仏「今、我が法の中において、比丘たちの言行は一致せず、心の中と言葉が相違している。あるいは利養のために銭財を蓄えて飲食をする。あるいは名誉のために勢力を作ろうとする。あるいは王法による使役を嫌って出家してなりわいとする。みな、心は三解脱門に向いていない。三苦から済度する方に向いていない。不浄の心で信施を貪り受けている。後世に受ける何劫にもわたる災いのことを知らず、そのつもった債務を晴らさねばならないことを知らない。だからこういうことをするのだ。あえて言うまでもなかろう」
 仏は王に説き始めた。

 はるか昔、裴扇闍(ハイセンジャ)という大国があった。そこに提違(テイイ)という女がいた。バラモン種で、夫が亡くなってからは独り身を守っていた。
 その家は大いに富んでいて、子も父母もいなかった。一人暮らしで困窮していき、頼る者もいなかった。バラモンの法では、もし生活できなければ自らを焼かなくてはならない。

※今でもインドでは、寡婦が火葬の場で火に飛び込む事例が絶えません。

 バラモンたちは時々連れ立って行き、教化しようとして言った。
「今の身の厄はそなたの前世の罪から来ている。罪というのは、バラモンたちを敬わず奉仕しないこと、父母に孝ならず従わないこと、夫に対して無慈悲で子を養育しないことを言う。この罪によって今の厄があるのだ。もし修福滅罪をせねば、後世には地獄に落ちるだろう。そうなってからでは後悔しても間に合わないぞ」
テイイ「何をすれば福となり、罪をなくせるのですか」
バラモン「滅罪には二種ある。罪の軽い者は、自ら頭を剃り香湯で洗浴してから天廟に入り、ナーラーヤナ(=ヴィシュヌー)に懺悔し謝罪の言葉を述べる。バラモン百人を招いて飲食の場を設ける。飲食が終れば子牛のいる乳牛百頭をバラモンに布施する。そうすれば罪は消える。なぜかというとバラモンは浄い梵行をおさめ、酒・肉・五辛の葱や蒜を食べず、ただ牛乳だけを食事としているからだ。施主の壇越には罪がなくなり福が生じる。後世は願うままの所に生れるであろう。

※インド映画の『マニカルニカ』では、先代の王妃がつるつる頭に剃髪していて、寡婦となった王妃に早く頭を剃りなさいという場面があります。王侯貴族は、大昔からずっとこのようにして来たのでしょう。そしてバラモンの過度な要求には、仏教が興隆した理由、イスラム教が浸透した理由が理解できます。

 そなたの罪は重い。家中の一切の所有物、珍宝を五百人の大バラモンに布施するのだ。バラモンたちが布施を得れば呪願を受ける。そこで後生で常に大富を得、滅罪をしたいと願うのだ。水辺に薪を積んで自らを焼けば、バラモンたちは呪願を受ける。そなたが前世で造った一切の罪を、一時に滅尽でき、後世に生れかわればもはや災いはないのだ。父母、兄弟、夫や子供は寿命が無限で、楽しみは極まりない」
 そこでテイイはそうしましょうと言った。自ら身を焼く覚悟を決めたのだ。
 使用人に命じ、十人乗りの車を山に入らせて自らを焼く木を切らせた、
 この時、国の中に鉢底婆齊(バティバチ)という道人がいた。漢語では弁才である。精進・持戒し、多く聞いて智慧があり、いつも慈心をもって天下を教化していた。よこしまな者を改めさせて正しいことをさせ、悪を捨てて善を修めさせていた。テイイが自らを焼こうとしているのを聞いて憐愍をおぼえ、その家をたずねた。
 きけば噂の通りだ。何がしたいのかとたずねるとテイイは答えた。「自らを焼いて身の罪を消したいのです」
バティバチ「そなたの罪業は精神にくっついているもので、身体に合わさったものではない。いたずらに焼身の苦しみを得たとて滅罪はできるものか。
テイイ夫人の禍福は心より起きている。心に善を思えば受ける報いもまた善だ。心に悪を思えば悪の果報を受ける。心に思う苦楽によってもまた報を受けるのだ。
 人が餓死すれば餓鬼となる。苦悩して死んだ者は苦悩する報いを受ける。歓喜して死んだ者は歓喜の報い、安隠な者は安楽な果報を得るのだ。
 そなたは今、苦悩の中にあって滅罪と善の報いを求めている。幸いなことに、その必要はない。 それは意味をなさないからだ。テイイよ、貧しい病人が苦しんでいる所に悪人が来て、病人を罵ったとする。そうすれば手で耳をふさぐだろう。どうしてか。病人には善心があって怒りや悩みがないと言えるだろうか」
テイイ「貧しい病人は、人に会わなくともいつも怒り悩んでいます。怒りをなくそうと耳をふさいだとしてもそれは同じです」
バティバチ「それが今のそなただ。前世の罪で窮乏し厄にあい、いつも憂い悩んでいる。たとえ身を焼いたとしても、憂いや悩みを離れることは出来ない。貧しい病人が罵られても、苦悩が百千万倍に増すばかりだ。自ら身を焼くことも同じだ。猛炎が起きた時、体は焦げただれて息はいまだ絶えず、
心もいまだ壊れていない。身心が煮られたとしても、精神と意識はいまだ離れず苦の毒を受ける。煩悶は心を悩ませ、命終えると地獄に生まれかわる。
地獄の苦悩はより劇しく百千万倍、逃れることは難しい。身を焼いて苦を離れることを求めることなどできないのだ。
 テイイよ、車の牛が車を引くのをいやがって車輪を壊したとする。それでも罪の結果家畜となったというくびきはつながったままだ。人もまたそうだ。たとえ百千万世の身を焼いたとしても、罪業因縁は続いて滅ぶことはない。阿鼻地獄のように。罪人たちは一日中焼かれ八万回死んでは生きかえる。一劫をこえてようやくその罪が消えるのだ。そなたは今、いっとき身を焼いて滅罪しようとしている。そこに何が得られるだろうか」
 そしてバティバチは種々の因縁と正法をテイイに説いた。心やすらかになり、焼身への思いはやんだ。
テイイ「では、どのようにすれば滅罪がかなうのでしょう」
バティバチ「前に心が悪を作るのは、雲が月を覆うようなものだ。後に心が善をなすのはともし火が闇を払うようなものだ。そなたは今、幸いなことに滅罪の意思がある。ならば方法はある。一銭もついやさず毫の苦しみもない方法を教えよう。滅罪によって現世は安隠となり、後生では善き願いが思いのままに実現するのだ」
 テイイはこれを聞いて大いに喜んだ。憂いと怖れがなくなった。それは重罪の囚人が恩赦によって外に出られたようなものだった。
 すぐに立って敬意をあらわし、礼拝して挨拶をした。婢に高座を敷かせ、毛氈や絨毯、錦や刺繍のある布で厳かに飾った。散花と焼香をしてバティバチに高座につくようすすめた。バティバチはそれを受けて高座に登った。
 テイイ女人は家の奴婢・眷属五百人あまりを率いてバティバチを囲み、叩頭によって恭しく敬ってから合掌して立った。
テイイ「尊師の説かれた滅罪の話は喜ばしいのですが、まだ疑問があります。除罪の法についてどのように行えばよいのかお教えください」
バティバチ「罪が起きる理由は、身口意より出る。身業の不善とは、殺盗、邪婬である。口業の不善とは妄言、両舌、悪口、綺語である。意業の不善とは、嫉妬、瞋恚、憍慢、邪見である。これを十悪といい悪い果報を受ける。
 今はまさに一心に誠意をもって懺悔するのだ。過去の、今の罪を。今、悉く懺悔すれば滅罪がかなう。自ら立って誓うのだ。今より以降、あえて罪は犯さないと。そして先人である父母、夫、兄弟の過去の罪についても我が一心においてかわりに懺悔するのだ。わが弟子テイイよ。今、懺悔して、悪をあらため善を修め、福徳の因縁を一切の苦しむ衆生に施与し、衆生の罪を代りに受けて楽にさせるのだ。また誓言するのだ。自分の今日の邪をあらため正につく縁によって罪を悔い福を修めさせると。この因縁によって、身を捨て受けた身によって成仏の道に至るのだと。常によい師、善知識に遭い、寿命は無限で、いつも父母や夫、子、眷属たちといつも守りあい、今のような苦患を経験しないのだと」
 ここでバティバチはテイイに告げた。「悔過滅罪法はこれで全てだ」

※テイイは貧窮して頼る者もいなかったはず(守孤抱窮、無所恃怙)ですが、なんか500人もの奴婢・眷属がいる大所帯にすりかわっています。
まあ、本当に貧乏ならバラモンたちも来ないか

 テイイと眷属たちはバティバチの前にひれ伏して合掌して言った。「バティバチのお言葉は、弟子たちが奉じ尊び、法による懺悔を教えさとします。
願くば尊者よ、その他の善き法の教えをあたえたまえ。勤め行って功徳を増しましょう」
バティバチ「今まさに誠心から仏法僧に帰依するのだ。このことがあって十善道を受ける条件が整う。三回唱えるのだ。『わが弟子某甲(なにがし)は今より身を尽くして不殺不盗不邪婬につとめます』と。これが身の善業である。『不妄言不両舌不悪口不綺語につとめます』これが口の善業である。『不嫉妬不瞋恚不憍慢不邪見につとめます』これが意の善業である。名づけて十善戒法と言う」
 この時、バティバチはテイイに十善法を教え終えた。テイイと眷属は歓喜して踊りだしたくなり、心から教えをうけたまわった。
 テイイ女人は種々の百味飲食と諸々の珍宝をそろえ、ひれ伏して叉手しバティバチに言った。
「願わくば尊者よ、心を留めてあわれみて教化したまえ。今、尊者のために宮室を建てましょう。様々な便宜をはかり、終生おつかえいたしましょう」
バティバチ「そなたは今、よく邪を捨て正しきについた。十善を浄修し、正法の人となったのだ。十善をもって天下を教化するのだ。みずから報師として生徒に恩を与えよ。そなたはすでに得度している。私はここには留まらない。私は他の場所を教化しなくてはならないのだ」
 テイイは師が留まらないことを知って輦台を運ばせ、庫の珍しい宝物をのせて奉り、翻意をお願いした。バティバチは受けとらず、辞退して去った。
 テイイは思った。〈今日の結果はまったく自分による物だ。尊師和上は開悟を成しとげ恩を教えた。苦しんで請うても留まらなかった。そして珍しい宝物も受け取らなかった。こんな時何が出来よう〉
 悲痛から涙を流し、叩頭して辞謝をのべた。
 ここにバティバチは別れて去り、テイイ女人とその眷属五百余人は常に十善法を行い伝えた。

 多くの時がたち、その国では穀物が高騰し、民は飢えた。
 時に五人の比丘がいて、怠け者で学問をせず、経書や義理を学ぼうとしなかった。持戒・精進にも専念しなかった。
 世人は軽んじ供養をせず、貧窮して苦しんだが、生きる方法がなかった。
 五人は議論した。「人の生計というものは、臨機応変。人命はきわめて重い。どうして死を受け入れられよう」
 そこで各自で縄を用意し、縄床を作った。荒野の中を掃き清めて、花や幡で飾り坐った。外形は禅に似て内には邪濁を思った。
 世人はこれを見て聖人だと言い食べ物を供養した。
 百種の飲食が雲集し、五人は飽き足りてなお余りがあった。
 テイイはこの事を聞いて人をやり訪わせ見させた。報告では、五人の聖人がいて山沢に坐禅をし、世人が雲集してつかえること天神の如くだという。
 テイイは喜んで慶賀の言葉を述べた。「私の願は果たされました。明朝、立派な宝車を飾って、香華・伎楽とともに五比丘を詣でます」
 テイイは到着し、礼拝し挨拶をして、供養をした。飲食が終ると、テイイと眷属は恭しく敬い合掌して比丘に言った。
「尊き徳ははなはだ重く、無上の福田として衆生はおかげを被ります。どうか自分を卑下なさいますな。僭越ながら、皆様方を貧しい家にお招きし、
私のささやかなまごころを示したいのです。どうかお願いします。哀れみをもって皆を済度したまえ。弟子はまた、清浄な園林、流れる泉の浴池を持っております。華やかな飾り付けをいたしましょう」
 テイイと眷属は何度も叩頭した。
 五比丘はその思いがまことと知り、許可した。
 テイイは喜び、家に還った。使用人に宝車を飾らせ、五比丘を迎えに行かせて家で供養した。
 テイイ女人は家の近くによい園林を持っていた。そこは広く十頃(約50ヘクタール)ほどもあった。流れる泉の浴池に様々な花や果実。鷺に鴛鴦。とても清らかでよい庭園だった。その中に堂舎を造り、宝で飾った。堂舎の中に席を敷き、香りがよく清潔なよい臥具をそろえた。そしてそこに五比丘を住まわせた。
 テイイ女人は終生仕え、時宜に応じて飲食・湯薬を供給した。
 五比丘は主人に恩厚く供養され、安泰で楽しく暮した。そこで自賛して言った。
「どうして急にこういうことになったのか。夫人は世に生れて種々の方法で財利を求め、貧乏な人を救ってきた。思い通りに行くと言っても、我等以上の者はおるまい。皆、身を労せずして福禄を得た。これが智慧力でなくて何であろう」
 五比丘は主人の心からの誠意を察し、議論した。
「主人がいつも適宜供給してくれるとはいえ、年々貧乏になっていく。これでは人を救えない。今年は寒いのに我らは富を楽しんでいる。我等は今こそ方便によって銭財を求め、十分たまってから五欲の楽を受けようではないか」
 そこでかわるがわる一人を送り出して集落を回り、人々にこ告げ回った。
「あの四人の比丘は、閑居して寂静に生き、禁戒を護持している。酒肉を断ち、ネギやニンニクを食べず、梵行の止観を行っている。修行も久ししからずして無漏地を得、阿羅漢となった。天下の無上の福田となったのだ」
 人々はこれを聞いて、種々の銭財、飲食を供養しようと運んで来て恭しく供養した。これが長年続き、テイイ女人は心から敬信し、適宜供養して喜びが尽きることなく、寿命を終えると化楽天に生れかわった。
 五人の比丘は巧みに偽ることに専念し、心が邪まで濁っていたため、福が尽きて命を終えた。地獄に生れかわり、八千億劫にわたって大きな苦報を受けた。
 地獄の罪が終ると餓鬼になった。魑魅魍魎の身を転々として八千劫を経た。餓鬼の罪が終ると六畜の身となった。
 主人の過去世での供養への償いのため、業報因縁によって駱駝・驢騾・牛・馬の身を得、主人に福を与えるためにいつも筋力を使って仕えた。
 このようにして八千世がすぎ畜生の罪はおわった。

仏「人身を得たがぼんくらで男女の性器はなく、石女(センテイラ)と呼ばれた。それ以来八千世にわたっていつも筋力で主人に仕えた。それは今もまだ続いているのだ」
 仏は王に告げた。「その時のテイイが今の皇后である。バティバチが目連である。その時の五比丘が今の皇后に従って輿をかつぐセンテイラたちだ」
王「世尊のおっしゃる五人が起因とのこと、見るに今は輿をかつぐのは四人です。残りの一人はどこにいるのでしょう」
仏「その一人はいつも宮殿の内にいて厠の糞を掃除している」
 皇后はこれを聞いて、ぞっとして身の毛がよだつのを感じた。
 立ち上がって仏に礼をし、そばによって合掌して仏に言った。
「世尊のおおせでは、センテイラたちは私の前世の因縁の師だとのこと。師とは実に憂鬱で恐ろしいもの、逆らうと罰が恐ろしいものです。私の師は恭敬し、戴き、礼拝せねばならない存在でした。それなのにかえって輿をかつぎ牛馬と違いのないことをしていると言います。この因縁ははなはだ恐ろしいことです。仏よ、願わくば哀れみをたれて私の懺悔を聞きたまえ」

※皇后の先生はよほど厳しかったのですね。

仏「皇后の福徳にはもとより罪咎はない。何故疑いおそれるのか。衆生は性質を異にし、行いは同じではない。善なる者は福を受け、悪は苦しみを得る。皇后はあの時、心直く清浄にして。福を修めることを信じ楽しんだ。福徳の因縁によってそれ以来、世々生れかわってはいつも素晴しい師にあい、
教悔を信じ受けてきた。善より善に入り、禄より禄に入ったのだ。今日に至るまで食福は自然とそなわり、仏の世に生れた。前世の福徳の因縁力の結果である。正法を聞き、言われるように修行をした。この因縁により、罪咎はない。
 五人のセンテイラの因縁は、その時邪までおもねりへつらい慈心がなかったことによる。そなたの供養を受け、罪業因縁はその積もり積もった債務を払うためだ」
皇后「今の仏の話を聞いて、弟子の疑問は解けました。もはや憂いと恐れはありません。このセンテイラは罪業の報いを受けているのですね。それは終らせることの出来ない事なのですね。弟子は今、センテイラたちを自由にし、どこへなりと行かせますます。願わくば世尊、説法によって悟らせ、
その心を解き放ちたまえ。悪を改めて善をなすようにさせ、すみやかに苦を免れさせたまえ」
仏「今、私にその者たちを教化せよというのですね。宮殿の糞掃除係を呼んできなさい」
 皇后は使いをやりセンテイラを呼んでこさせた。
 五人が集まり、仏の前に立った。
 世尊は大慈悲をもって、まず慰労をした。
「そなたたちは健康で心穏やかに人生を楽しんでいますか」
 五人は怒って言った。「仏は何もわかっていない。昼夜苦しい勤務をしています。鞭や杖で使役され、心安まる時はありません。楽しいことなどありません。仏はどうしてそんな事も知らないのです。どうして楽しいか、などと聞くのです」
仏「今身の苦はみな前世のよこしまなことから来たことだ。不善の心を抱いて他人から供養を受けた罪業因縁によって転生し、今の身があるのだ。罪をあがなう因縁はまだおわっていない。そなたらが悪い果報を免れたいのなら、至誠の心で悔過するのだ。悪を改め善をおさめるのだ。この因縁によって苦を免れることができる」
 センテイラたちは仏の話を聞いてさらに怒りを増した。背を仏に向け、話を聴こうとしない。
 仏は神力をもって化仏を五人の前に立たせた。慰喩の手段とし、懺悔させるためだ。
 センテイラたちは今度は東を向いた。また化仏がいて前に立つ。西を向いても同じだ。四方に上下、みな仏がいて対面した。センテイラたちは仏に囲まれたのを見て、怨みの声をあげ叫んだ。
「我々は今、悪い罪人にされている。仏はどうしてこのように苦しめ迫ってくるのか」
 そこで世尊は化仏をおさめ、一仏身にした。
 仏は大衆に告げた。「国王、太后、諸比丘たちよ、そなたらはセンテイラを見ているか」
「はい」
「皆は知るべきだ。衆生の罪業には二種の障りがある。一つは業障、二つは煩悩障だ。罪の軽い者は煩悩障がある。罪の重い者は業障がある。センテイラたちは二つの障りを持っている。罪が重いがゆえに。それ故に教化が受けられないのだ。どのようにしようとも」
 皇后は、センテイラたちが仏の教化を受けられないのを哀れみ心をいためて五人に言った。「今からは永遠にしがらみを解きましょう。どこに行ってもいいのですよ。憂うことなくお楽しみなさい」
 センテイラたちはひれ伏して涙を流し皇后に言った。「われら五人は王家に仕えて何の落ち度もありません。今日追い払われるとは思ってもいませんでした。もしさしつかえなければ、今まで通り使っていただけないでしょうか」
 皇后は再三にわたって説得したが、センテイラたちは去ろうとはしなかった。
 皇后は仏に言った。「弟子はまごころからセンテイラを解放しようとしました。しかしここを離れようとしません。どうすべきなのでしょう」
仏「センテイラたちはいまだ罰の債務を払い終えていない。因縁によってつながれているのだ。どのようにしても去らせることはできない。その意に従って元の仕事に戻らせ、自らの因縁への支払いを終らせべきだ。そうすれば自ずと苦を逃れるであろう。
 王夫人の福をなすことは謙虚にして敬うべき価値がある。心に正直で清浄な行いだ。道を行うに当たって功徳は限りない。火にも焼かれず水にも漂わず、盗賊にもおそわれない。国王は強力でゆるぎもない。今の皇后は天の福を受けている。人で悪心のとおりにする者は、現に目の前にある利をむさぼる。センテイラのように世々わざわいを受けて休む間もない。たまたま聖化に遭ってもかくのごとく馬耳東風、罪業力のせいだ。かえって怨みと妬みを起こし、暗闇に生きる。免れる方法はない」

※輪廻観に基づく障害者への差別は、当時の書き手の価値観によること、言うまでもありません。

 この時世尊は慈悲心から比丘たちに告げた。「前に説いたように、人身は得難い。仏に遭うのは難しい。法を聞くことは難しい。寿命は短い。諸君、前世の身のささやかな善によって人となり、仏の在世中にあって法を聞き信受した。恩愛を割断し、父母兄弟妻子ら六親眷属と別れて道のために出家した。囚人が釈放されるように、悪を捨て善に従うべきだ。心の中と表われる相を一致させ、言行異らず、少欲にして足るを知り、世の栄えをむさぼらず、飢渇を忍耐せよ。志は無為にあって学問を研精し衆悪を捨てよ。智慧をそなえ無漏業を修養せよ。生死の海を出て智慧によって天下を教化するのだ。十善を行わしめよ。これを名づけて『自度度人(自らを済度し人を済度する)』と言う。まさに菩薩の行いである」
 会衆で比丘たちのある者は仏の説く所を聞いて自らの行いを思い、身口意の業が道法にかなっていないと反省した。
 五百余人が立ち上がり、敬って叩頭・懺悔・叉手・合掌をした。
比丘たち「世尊のお教えになった三不善業は、我等みながしております。今、仏の前で懺悔を発露します。願わくば天尊、その誠を察したまえ。これ以降非道を行わず法にかなった行いをすると誓います。願わくば仏よ、承知したまえ」
仏「三界の聖尊、衆生の父は、子が今、悪を悔い善をなすということを欣ばしく思う。まさに随喜である」
 五百人のいまだ未完成の比丘たちはこれを聞いて立ち上がり、敬い叩頭して仏に言った。
「世尊、我等はいまだ出家の道を修める事に耐えられません。どうしてかというと、昔から利養をして生活してきたからです。行いは邪まで濁っています。嘘もつきます。人の供養を受け、生きる負債を増すばかりです。それゆえ憂い懼れています。今、道を捨てて還俗しようと思います。願わくば仏よ、聞き届けたまえ」
仏「善きかな善きかな。そなたらの幸せのために助けよう。なぜか。修行に入るのは、毒のついた刃を持つようなものだ。扱えないのであればやらないほうがいい。なぜなら執持しても実行しないのならかえって害となるのだから。そなたらは今、業報を信じて慚愧の心がある。慚愧があるから罪を除滅し善根をのばせるのだ。弥勒菩薩が後に成仏した時、初めての説法で済度されるであろう」
 そして比丘たちに告げた。「たとえその身の肉を裂いて口にしようとも、邪心から他人の施しを受けてはならない。はなはだしく難しいことだが、
慎みに慎みを重ねなくてはならない」
 この時、仏の子のラーフラら五十人の沙弥は、仏がセンテイラの話をして禍々しい因縁を説いたのを聞き、とても憂い懼れた。みな敬い頭を地につけ仏に礼をし、叉手・合掌して言った。
「世尊、今センテイラの宿業因縁と苦しみの果報を聞いてとても怖いのです。舎利弗和上は大智者にして福徳があり、国中の豪族や知りあいから競うようにして供養が集まっています。食事は最上で甘く珍しく美味です。私は子供で愚か、福徳はありません。これらの素晴しい飲食物を得て、後世にその因縁であがなう事になり、センテイラのように苦の果報を受けるのではないでしょうか。これが僕らの本当の憂いなのです。徳にすぐれた五百人の比丘ですら耐えられなくて還俗すると言います。智慧のない子供に至ってはなおさらです。仏よ、哀れみもて我らにも家に帰ることを許し、苦厄の報いから免れさせてください」
世尊「そなたは今、罪をおそれて家に還りたいと言う。苦を離れる事はそうはうまく行かない。なぜかを話そう。
 ここに二人の貧乏で飢えた人がいるとする。たまたま主人を得て種々の栄養がある美味をもらったら、その人は飢餓から食べすぎるだろう。
 一人が智者、二人が愚痴である。
 二人は食べ過ぎて身体が重く、うめいてあくびばかり出る。
 智者は、苦しみ病気をうたがって、すぐに賢い医者の所に行き、謙虚にへりくだって叩頭し、苦患を除くよう救いを求める。良医は吐瀉薬をくれて普服用するようにと言う。その人は腹の中の食べ物を吐いて暖い火の横のそばでじっと休む。それによって患いを逃れ寿命まで安楽にすごす。
 無智な人は食べ過ぎと知らず、病を鬼魅のせいにして、家財を費やし生贄をほふって鬼神をまつり命を救ってくれと願う。むなしい努力をする間に、
腹の中のたまった食べ物はガスを発生し、それが筋肉におよんで心臓を痛めつけ、ついには死亡する。無智なるがゆえに、地獄に生れかわって世々苦を受けるのだ。
 ラーフラよ、罪を怖れて家に帰ることは、無智な愚人と同じだ。人が福を求めるのは罪から離れることを望んでだ。謙虚につとめ、よい師に親しみ、智慧を習い、罪業を懺悔し、過去を改めよ。これをゆっくりとなしていけば智慧は成就する。智慧が成就すればもろもろの罪は消える。私が以前話したように。日光の威力は暗黒をとりのぞく。人の智慧の修習もまた同じだ。そなたは過去の因縁となる善根があるからこそ私に遭えたのだ。舎利弗たちは、かのよい医者のように苦しみ患いから救い不死を与えてくれる。そなたは今、何のために明るきを捨てて暗きに入ろうというのか」
沙弥のラーフラ「世尊、諸仏の智慧は大海のごとく、ラーフラの心はそのかけらほどもありません。どうして如来の智慧を受持できるでしょう」
仏「天が雨の涙を流そうとも、後のことは前には及ばない。どうして満たしつつある段階なくして大きな器を満たせようか。智慧の修学もそれと同じだ。小さなことからはじまりついには大きな器となる。大きな器となってはじめて他の器に転ぜうるのだ。この変転によって数限りない器が満たされる。これを名づけて『自利利人』と言う。 『自利利人』の人を名づけて大士と言う。今の私のように」
 ラーフラたちは、仏の説くところを聞いて心穏やかになり憂いはなくなった。世尊の教えのままに行えば、疑いは起きないのだ。
 この集会で、王の太子、祇陀(ジェータ)は、仏が説く十善道法・因縁と果報が尽きないことについて聞き、ひざまづき叉手して言った。
「仏よ、私は昔、五戒を受持するように言われました。今、それを捨てて十善法を受けたく思います。なぜかというと、五戒法の中でも罪を怖れていても酒戒は保ちがたいからです」
世尊「そなたが酒を飲む時、何か悪いことがあるのか」
ジェータ太子「国中の豪傑たちがつどうとき、時々酒食を持ち寄ってともに娯楽とするのです。楽しむだけでもとから悪いことはありません。なぜなら、酒を飲む時も戒を思い放逸にはならないからです。これゆえ飲酒しても悪事はしないのです」
仏「よきかなよきかな。ジェータよ、そなたは今、すでに智慧の方便を得ている。世間の人ならばそなたのようには行くまい。酒を飲み続けても悪しきことがあろうか。このような行者はまさに福を生んで罪がない。
 人が善を行うのにはおよそ二種類ある。一つは有漏。二つは無漏。有漏の善はかならず人天の快楽という果報を得る。無漏の善は生死の苦を済度し涅槃という果報を得る。もし飲酒しても悪業を喜ぶ心を起こさなければ煩悩は起きない。善心の因縁によって善の果報を受けるのだ。そなたは五戒をたもって何の落ち度もなかった。飲酒して戒を思えばその福はますます大きい。
先に五戒をたもち今十善を受ければ、功徳は倍であり、十善の報いにまさる」
ハシノク王「世尊、仏の説くとおりです。歓喜していれば悪業は起こしません。有漏の善と名づけた者はそうではないのですね。人は飲酒する時、心は歓喜します。歓喜心の故に煩悩は起きません。煩悩がないと悩む害もなく何かを害することもなく心口意の三業は清浄です。清浄の道とは即ち無漏のおこない。
 世尊は憶えておいででしょう。昔、狩猟に遊びに出た時に料理長をともなうのを忘れたときの話を。深い山の中で飢えましてな。左右の者は言ったものです。宮殿を出る時に料理長を連れて行けとは言われなかった、それゆえに食事がないのだと。余はそれを聞いて馬を走らせ宮殿に還り、食事を求めさせました。王家の料理長の修迦羅(シューカラ)は言ったものです。すぐに食べられる物はないので、今作りますと。
 余は飢えにせまられ怒りによって何も考えられず、そばの臣下に料理長を殺さようとしました。臣下は王命に対してみなで言ったものです。
『国中を見渡してもこの料理人ほど忠良でまじめに事にあたっている者はおりません、今もし殺せば無能な者が王の料理長となり、王の意を称するでしょう』と。
 その時、末利(マッリカー)夫人が余がシューカラを殺せと命じたと聞いて、情けからこれを惜しみ、余の飢えを知ってよい肉と美酒を用意させました。沐浴し名香をたきこめ着飾って伎女たちを引き連れ、余の所に来たものです。余は、夫人が妓女を従えて荘麗な装いでよい酒肉を持ってきたのを見て、怒りがおさまりました。なぜかというと、マッリカー夫人は仏の五戒をたもち断酒して飲まないことから、余は常々恨んでいたのです。それが今日、突然、酒肉を持ってきて許してやってほしいと言い、ともに楽しもうというのです。そこで夫人と酒を飲み肉を食べ、伎楽を楽しみました。怒りの心がなくなったと知った夫人は、宦官をやり、外廷の臣に料理長を殺すなという命令を伝えさせました。
 翌朝、深い後悔と自責の念に憂鬱になり楽しくなかったものです。顔が憔悴していたので夫人が何を悩んでおいでなのですとたずねました。
 余は言いました。『昨日、飢えの火のせいで瞋恚の心を起し、シューカラを殺してしまった。国中を見てもシューカラほど有能な料理長はいないというのに。このことを悔やんでいたのだ』
 夫人は笑って言いました。『その人は生きています。王よ愁いなさいますな』
 余は重ねてたずねました。『本当なのだな。戯言ではないのだな』
 答えは本当だと。余は左右に命じて料理長を呼んで来させました。すぐに来て、余は大いに喜び、憂いや恨みはすぐに消えました」
 王は仏に言った。「マッリカー夫人は仏の五戒をたもち、月に六日の潔斎を行い、一日中五戒を守っています。にもかかわらず飲酒と妄語の二つの戒を破りました。八斎戒(不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・不得過日中食・不得歌舞作楽塗身香油・不得坐高広大床)のうち六つの戒(不殺生・不偸盗外の六つ)まで犯しました。この犯戒の罪の軽重はいかがでしょう」
世尊「この犯戒は大いに功徳がある。罪はない。なぜなら他人のしあわせのためにしたことだからだ。前に説いたように、人の修善には二種類ある。一つは有漏善、もう一つは無漏善だ。マッリカー夫人が犯した戒は有漏善である。犯していない戒は無漏善である。

※有漏善とは、作為のある執着の残る善のこと、無漏善とは、作為がなく執着の残らない善を言います

意義から語ると『破戒修善』は有漏善である。意義から語ると心底から起こされた善は、無漏業である」
王「世尊の説かれることによれば、マッリカー夫人の飲酒についての破戒は悪心を起こさず功徳があると言うのですね。罪の報いがないということは、
一切の人々についてもまた同じことなのでしょう。
 余は思い出すのです。舎衛城の中の豪族たち、クシャトリアの王公たちがささいな諍いから大きな怨みとなり、各々謀って兵を起こし相攻めたときのことを。両家は国の豪傑で、その親戚たちも同じ。記録もままならないほど入り交じって戦い、理による諫めには従いませんでした。余はこれを深く憂い思ったものです。
 そこで思ったのです。

 昔、余が太子だった時、先王の大臣の提違羅(ダイイラ)が一門の富貴豪強をたのみ、おごりたかぶって余をあなどったものでした。戯れを装いながら畜生に対するようにふるまったのです。当時、余は怒り、現実が見えず誅滅しようと思いました。力が及ばず、父王に訴えるも聴いてもらえません。これをどうしてやろうかと毒のような恨みを抱き、懊悩と憂いから飲食も喉を通らなかったのです。
 時の太后は余の愁苦を見て、色々といさめてくれました。しかし余の愁いはやみません。太后は子への愛情から、使いをやってよい酒を買ってこさせました。私に飲ませるためです。
 そこで余は母に言いました。「王家は先祖代々、ヴィシュヌに仕えバラモンを奉じています。今もし飲酒をすれば天の怒りがおそろしいです。バラモンにも罰せられます」
 太后は子がおびえるのを見て、夜の静かな時に宮門を閉め、他人が入ってこないようにして宦官と婢のみに知らせました。
太后「天の神には一切の苦を救おうという慈悲心があります。バラモンは皆、知るべきなのです。子の愁いの毒が自ら命を失わせようとしている事実を。天の神にどうして子の命が救えるでしょう。むしろ服薬して憂い患いを雲散させ、命を全うさせるべきなのです。バラモンたちは未だ天眼を得ていません。どうして子の隠し事を知れるでしょう」
 再三にわたり説いて余に従わせたのです。酒を飲むと愁いと恨みはえました。太后は子の顔色が元に戻ったのを見て、心から喜びました。宮女を招集し、伎楽を唱わせ、三週間にわたり五欲の楽しみを得させて怒りと恨みを追い払ったのです。

 この経験から、余は忠臣たちに酒と美食をたしなむように命じました。また、国中の豪族・群臣・士民に集まって国の大事を議論させることにしました。
 臣下の争う両派から五百人ずつが、飾りつけがなされ音楽の演奏される王殿にのぼりました。王は忠臣たちに三升ばかりの琉璃の椀を持たせ、よい酒をみなみなと注ぎました。
 余は皆の前でまず椀を飲み干しました。
王「今、国の大事を論ずるにあたって、この席について異心を抱く者はおるまい。今、各人に一椀の甘露の良薬を渡した。飲み干してから議論しようではないか」
 みなは大王の勅に「はい」と言いました。伎官たちに歌を唱わせ、音楽を鳴らさせ、皆が酒を飲んで楽しくなり、恨みを忘れ憂いがなくなりました。
 余はまた椀を持ち、言いました。
「士大夫たるもの徳をおさめ、世々聖教を奉じて正しく伝えていかねばならぬ。諸君はどうして小事から争い怒るのか。もし忍耐できぬ者がいれば、
亡国のおそれがある。それゆえきびしく諫め、幸いにも争いはやんだ」
 諸臣「敬って王命を奉じます。あえてそむきはしません」
 これによって和平がなったのです。

 王は仏に言った。「人々が諍いを起こす原因は酒にはないのです。それなのに酒を原因と言う。怒りと諍いの心をしずめ太平を得させるのです。これが酒の功でないと言えるでしょうか。そして世尊、世間を観察するに、窮貧した人、奴婢、夷蛮の人は、節目の日と言っては酒の店に集まり飲酒して楽しみます。人に教わらずとも各々舞いおどります。酒を飲んでいない時はそのような事はありません。ここから知るべきです。人は飲酒によって歓楽を得るのだと。心に歓楽が起これば悪念は起きません。悪念が起きなければそれは善心です。善心の因縁によって善報をうけると言えるでしょう。そして世尊、猿が酒を飲んでも、立って舞います。世の人は言うまでもありません。世尊の説かれる通り、善を行えば善報があり、悪を行えば悪報があります。世の人は前世に布施をしたという福徳因縁によって、今の大富に至ります。貧者は物惜しみから与えず、慳貪の因縁から餓鬼の身という報いを受けるのです。
 あるいは世の人は男であれ女であれ端正に生れれば、男は女に愛され、女は男の喜びとなります。もし力が強ければ男女の仲に割り込んで会わせないようにできます。会えない事は憂いの苦しみを生みます。この災いの罪はどこに帰すればいいのでしょう。
 マッリカー夫人は前世で好んで人に施しをしたから今のよい果報を受けています。世尊はどうして「五戒を保て。月に六度の潔斎をせよ。
六斎の日には香華・服飾で飾り立ててはならない。また倡伎の楽を聴いてはならない。愛する夫とむつみあってはならない」とおおせになったのでしょう。つまる所、前世の施しの功をいたずらに亡きものにしています。これが苦ではないとあえて言えるでしょうか」
仏「大王の非難は妥当ではない。マッリカー夫人は年少の時に私の勅令通り受戒して法を修めたから智慧ある者となったのだ。でなければどうして今日の徳があろう。よく済度を得たから王の身も済度できたのだ。この功は誰に帰することができよう。マッリカー夫人は我が教えを受け、説いたとおりに行ったから、今日の智慧・方便・解脱を成就したのだ。大王よ。たとえば世の人の家に一人の子がいて、成功させたければ幼い頃から学堂に行かせるだろう。師から文芸・書道に読み方・人望と礼儀を学ぶのだ。学堂の法には定めがあり、杖の罰の呵嘖がある。飲食には禁止と制約があり、睡眠も出入りも自由ではない。節度を失ってはならず、違反した者には随時軽重の罰が与えられる。子供は杖を畏れて学業に専心する。成長すると才高く博聞の人となり知らないことはなくなる。また知っていることを他の人に教えられる。マッリカー夫人は斎戒をたもち、このように大王に教えを転じたのだ。

 富楼那(仏弟子のプルナ)は妬嫉心から恩愛を断じ、父母と別れ妻子を捨てて山に入って学んだ。草を衣服とし、寒さと苦に耐え、自立して誓言した。「九十六種の経書・記論を暗誦しことごとく通達しよう。さもなくば父母とは会うまい」
 二十年して一切に通達し王舎城に還った。頭には炬火をのせ。銅の腹巻をして道を行き自らを唱って言った。
「我は一切を智る者。我がもとに至れ。ゴータマ沙門は畢竟何も知らぬ」
 私はこの痴人に詩で言った。


 若多少有聞 自大以憍人
(いかほどの知識があっても 尊大で憍慢な人は)
 是如盲執燭 照彼不自明
(蝋燭を持つ盲人のように 自らを照らす灯りを見ることができない)

 プルナはこの言葉を聞くと忽然として悟り、炬火を捨てて腹巻を解いた。五体投地し慚愧の思いから悔過をした。すべて多く聞いたことによる智慧と感覚器官の鋭さからなせた事だ。
 智慧が整わない時はこの世の煩悩を断ち羅漢の道を得る。智慧の力とは象の調教に使う鉤にたとえられる。大王よまさに知るべし。学習する者は感覚を節制する。その後、通達すれば自らの行動を制限するこだわりはなくなる。名づけて無礙智という。
 無礙智は四つの弁才をそなえる。今プルナは四つの弁才を備えている。これは皆が嫌がる勤苦の学びから得たものだ。だから私は説くのだ。智慧を解する者は七徳才があると。七徳才とは何か。信才、精進才、戒才、慚愧才、聞才、捨才、定慧才の七才である。
 マッリカー夫人はこの七才をそなえている。大王よ、マッリカー夫人は女の身でありながら、才能があって智慧は博識で凡人と同じではない。これは幼い頃から身口意を慎み、智慧力のゆえに一心に智慧を修習してきたからだ。これを名づけて解脱という。智慧によって天下が理解でき悟ったのだ」

 この時世尊は、ラーフラ沙弥をはじめ大衆のために頌を説いた。


 聞為金翼鳥 威勢武力強
(聞くことは、威勢と武力の強い金翼鳥なり)
 聞為行宝蔵 所在相利益
(聞くことは、歩む宝蔵、いたるところに御利益あり)
 聞為大橋梁 済度衆苦厄
(聞くことは、もろもろの苦厄を渡す大いなる橋)
 聞為大船師 済渡生死海
(聞くことは、生死の海をわたらせる大船長)
 多聞令志明 以明智慧増
(多く聞くことで心が澄み渡り、知恵が育つ)
 智則博解義 見聞行法安
(智慧とはひろく意味を理解すること、見聞によって法の安らぎを得る)
 多聞能除憂 能以定為歓
(多く聞くことで憂いが除かれ、喜びに安住できる)
 善解甘露法 従是得泥洹 
(甘露のような法がよく理解でき、ここより涅槃が得られる)
 聞為知律法 解疑亦見正
(聞くことを知の律法とすれば、疑いは解け正しいことがわかる)
 従聞捨非法 行到不死処
(聞くことで非法を捨て、不死のところに至れる)
 仙人敬事聞 諸天亦復然
(仙人は聞く人を尊敬し、天人もまた尊敬する)
 撿心不放逸 積聞成聖智
(心を制し放逸にならず、聞き続けることで聖者の智慧となる)
 慧能散憂患 亦除非邪衰
(智慧は憂いを払い、邪悪を除き弱める)
 欲求安隠吉 当奉事明者
(安穏にして幸いであることを求めるのなら、賢明な者に仕えるべし)
 盲従是得眼 如暗中得燭
(盲人はこれによって眼を得る、暗闇で燭を得るように)
 開導世間人 如明将無目
(世間の人を導く、目をくらませる明るさを)
 是故応捨痴 離慢豪富楽
(それゆえ愚かさを捨てて、傲慢と富の楽しみを離れ)
 務学事明者 是名積聚徳
(学問を修め賢明な者に仕える者は、徳を積む人と呼ばれる)

 世尊はこの偈を説き終えると、また王に告げた。
「王は今、福徳にめぐまれ聡明にして朗らか、博識である。みな前世で賢明な師に親しみ、苦を厭わず仕え、学んできたからだ。因縁の果報によって今は人の王となり、智慧はすぐれ、土地は肥沃で世間では珍しい。それゆえ私は説くのだ。般若の智慧にある四種の義を。まさに知るべし、三乗の教えを求める人はまさに般若(智慧)を求めるべし。もし三悪八難の苦患を離れたくば、人天の快楽という果報をうけたければ、つまり手短かに言うと一切の福徳を求めるならば、皆、智慧のてだてを学ばなくてはならない。私が先に説いたように、アジタ王が苦労して学んだのは智慧力のおかげだ。もし亡くなって悪趣に生れたとしても、常に宿命を知る。宿命を知るから悪を改め善を修める。すみやかに解脱を得る。諸天は感じ入り供養をして救う。智慧力のおかげで諸天の師となるだろう。この因縁によって、私は般若に四種の意義があると説くのだ」
 ハシノク王は、仏が智慧のてだてによる功徳の因縁を説くのを聞いて大いに喜んだ。
 ジェータ太子、夫人や太后、群臣に士に民、一切の大衆で理解し悟らぬ者はなかった。各々敬って仏に礼をし、座に戻った。
 王は叉手して言った。「仏のおおせはこうですな。世の人の善を修めるにはおよそ二種がある。一つは有漏善、もう一つは無漏善。有漏と無漏の二義は一に帰する、と。世尊、どうしてこの違いを説かれるのです」
仏「人には二種類ある。一つは利根、もう一つは鈍根だ。鈍根の人のために二種の善を説き、利根の人には二つを説かない。どうしてかと言うと、もろもろの源泉からの流れはついには一海に帰するからだ。鈍根の人の感覚は暗く塞がれている。だから分別した法を説くのだ」
 国王とジェータ太子は世尊に言った。「十善戒法にはそれぞれの違いはありますか。同じ重さですか。妄語戒の重さは一つですかたくさんですか。もし同じ重さなら保つことはできません。もし違いがあるのなら、願わくば仏よ、これを説きたまえ」
仏「妄語には二種類ある。一つは重く一つは軽い。何を重いと言うのか。受戒した人が智慧を学ばず愚痴・無智なことを言う。教化できず、仏法も興隆できない。人から軽んじられ。供養を受けず、貧窮・困苦する。供養を受けるために外には精進の様子を表し、内は邪濁で、教えをころころ変える。皆に向かっては、比丘の苦行・精進によって禅の境界を得たように見せ、あるいは仏に会った、竜に会った、鬼に会ったなどと言う。このような人を大妄語と名づける。この罪を犯した者は阿鼻地獄に落ちる。また、妄語によって、殺人、人家の破壊などをさせ、妄語によって契約をたがえ他人の怒りと恨みとをかう。こういう人を下妄語と言う。このような者を犯戒と言い、小地獄に落ちる。その他の戯れや私的な禁忌事項に触れたり、あるいは言ったことをしなかったり言わなかったことをするのは犯戒ではない」
 ジェータ太子はこれを聞くと、仏前で十善道法を受けて言った。
「世尊、弟子は今日、疑いと悔いがなくなり、三菩提心が起きました。願わくば仏よ、証知したまえ」
仏「善きかな。この時をむかえるとははなはだ喜ばしいことだ」
王「仏のおおせでは、十方の賢聖・明達の衆生は因縁による果報を受けた者とのことです。我が父である先王は、外道(仏教ではない教え)を奉じ、禁戒を守り、酒肉五辛ネギニンニクを断ってきました。梵天、日月水火を供養し、常に布施を行って梵天に福を求めてきました。毎年いつも千頭の乳牛をバラモンに施して四十年、四万頭の牛を布施しました。諸バラモンは、その乳、酪、生酥、熟酥、醍醐等を味わってきたのです。この功徳によってどこの天に生れかわるのでしょう。願わくば仏よ、哀れみを垂れて詳しく教えたまえ。行者たちにも聞かせたまえ」
仏「前王は果報によって、今は地獄にいる。なぜかというと、善い時に会わず、善い友に遭わず、よい手だてに逢わなかったからだ。いくら功徳を積んでも、罪を免れることは出来ない。布施の功徳も失ったものを取り返せない。罰を終えてから福を受けるのだ。
 大王よ、まさに知るべし。人の福を修める行為は罪には見合わないそれゆえ滅罪には手だてが必要なのだ。それは善知識である。善友である。正しい見識の人を善友という。常に正しい教えで導き、その心を調伏する。
 正しい教えとは何か。
 生死にまとわりついた無常・苦・空・無我・十二因縁を見ることである。
 苦集滅道の四真諦をおさめ、苦を見て断ち、滅の修道を習い証すことである。
 六波羅蜜を行うことである。
 慈悲喜捨の四無量心である。
 これを手だてとして感覚器官を調伏するのである。調伏ができれば、禅定と智慧ができる。智慧が成就すれば、心は正しく直くなる。心が正しく直くなると、精進(一心に努力すること)ができる。精進の心があれば戒慎がかなう。戒慎はつまるところ、定慧が明了になる。智慧が明了になれば何事も楽々とこなし、通達して障害がない。無礙であるから解脱と名づける。解脱心は即ち涅槃である。だから善知識と名づけるのだ。大王よ。まさに知るべし。賢明な師による善き導きは、大因縁によるものであり軽んじてはならない。大王は今、賢聖に遭っている。皆、前世の因縁の果報である。法を聞いてして信解せよ。それによって人もまたよく理解できるのだ。
 それゆえ私は説く。賢明な人には遭いがたく比べるものもないのだと。生れたところで一族・親類のおかげをこうむるしかないのだ。それゆえ般若の智慧を修しなくてはならない」
王「世尊のお教えでは、智慧の手だては皆、すでに心の奥底にあって、禍福もおのおの別であるというのですね。余の先帝である大王は、どんな悪業によって苦の報いを受けたのでしょう」
仏「先帝大王には六種の罪がある。
一つは傲慢で嫉妬深かったことだ。些細なことで鞭の罰を与えた。忍辱をしなかったがゆえに。
二つは宝貨を貪り愛して不公平な判断をしたことだ。それが天下の怨みをまねいた。
三つは猟や戯れを好み、民を苦しませた。生き物の大切な命をを傷つけたのだ。
四つは意に従わぬ宮女を閉じ込めたことだ。大いに苦しめた。
五つは女色に耽溺し、新しきを喜んで古きを嫌い、公平に接さず怨みをかった。
六つはバラモンを畏れ、その呵責を恐れて酒・肉・五辛・ネギ・ニンニクをこっそり食べたことだ。これは欺きである。
この六事の罪業因縁によって地獄に生れ変った」
王「仏があらわれる前には、余もそうでした。弟子である余にもまたこの罪があります。どうすればいいのでしょう。十善行をすることで、智慧の成就の妨げとならないようにできるのでしょうか」
仏「先に説いたように、日光が出れば暗闇はあますことなくことごとく滅する」
王「灯火の光でも暗闇は払えます。力強い日の光明なら言うまでもありません」
 今、王の福徳によって、仏が説く法を聞くことで智慧が成就された。日光が一切の暗をはらうように、残りの罪は消えた。
王「余の父がつかえたバラモンの師たちは、精進し、智慧を修習し、苦行をしました。福を求めるが故に身命を惜しまず、崖から身を投じ、熱で身をあぶり、飲食を断って梵天に生れ変ろうとしました。あるいはたくさんの薪を積み、生きて自身を焼きました。あるいはひざまづいて口を開き太陽に向かい、あるいは高い樹に縄で脚をしばってぶら下がりました。棘のある荊の上に横になり、石を胸に抱いて鎚で割らせました。これらの種々の苦行の功、福徳の因縁はどこに向かうのでしょう」
仏「前に説いた通り、苦行の報いは苦、楽行の報いは楽である。聞いていなかったかな」
王「弟子たちを制し禁戒を保たせるのは、苦ではないのですか。人は飢えて食がすぐに得られないとき、煩悩がみだりに起き、忿怒の心が盛んになります。自覚することなく怒りが湧き、他人を害することを思います。私がシューカラを殺そうとしたときもそうでした。これによって世々苦しみます。これは悪ではないと言えるでしょうか
仏「私が前に午前中のみの食事を決めたのは、比丘たちに外道の法を捨てさせるためだ。我が法では出家を道とする。まず苦行を習うと、飢餓心から弟子たちは美食にはしり食をむさぼり食べまくる。食は消化されず病気になる。それゆえ食を制限したのだ。飢餓の苦によって福徳を求めるためではない。また、節食した者が比丘を見たとき、縦横に、昼夜なく乞食して食事時に節制がないと、外道たちに責められることになる。『ゴータマ沙門は自ら道を極めたといいながら、どうしてこのような外道の法を行うのか』と。
それゆえの節食である。飢苦によって福を求めるためではない。まとめて言うと、定めた禁戒は、愚者には手だてとなる知恵がないからで、時宜を心得た賢者のためではない。かつて言ったように、般若の智慧は解脱によってて賢者が受け、行い、居る場所なのだ」
 王はこれを聞いてますます喜び、恭敬の心を増して仏に礼をした。一切の大衆もみなハシノク王にならい、ひれ伏して合掌した。
「今、この大衆はみな仏の説く所を聞いて疑問が氷解しました。それは日光が暗闇を祓って大いなる明るさが得られるようです。この功徳の恩は報いがたいものです。弟子たちはどのように供養して、今世の大恩に報いるべきでしょう」
仏「甘露の法の教えには報いがたい。たとえガンジス川の砂粒ほどの劫にわたって心をつくして仕えたとしても。仏法の聖衆に衣食・臥具・医薬を供養したとしても。王よ、その福は多いと思うか」
王「とても多くはかり知れないほどです」
仏「甘露の法は精妙にしてはかりがたい。ささいな者も済度する。天ならぬ世の人の福徳の力では報いがたいのだ。ただ一つだけ仏恩に報いる方法がある。それはいつも慈心をもって理解した一切の善法を広め教化していくことだ。一人になってもその信心と成就した智慧を広め教化するのだ。これは果てしない行いである。たとえるなら、一つの灯火で無限の灯火をもやすようなものだ。このような行者こそ、師の重恩に報いる者といえよう。
 大王よまさに知るべし。師の解脱への導きの恩は、衆生を解脱させる智慧によって還ると。その行者は三世諸仏を供養する。ただ一師のみを供養するのではないのだ」
 王は叉手して言った。「聖教を宣伝し、群生を開悟させ、正見を行わせるのが聖道を修習することなのですね。その福はいかほどでしょう。衆生を導くために哀みて教えたまえ」
仏「もし善男子・善女人が師より一句一義でも法を聞いて、教化し広めていけば、あるいは一人でも未だ信じぬ者に信じさせれば、理解できていない者に理解させれば、その功徳は無量無辺である。凡夫の知りうるところではない。
 大王よ、もし千年にわたって恭敬する仏法の聖衆に飲食・医薬・上質の衣服を供養したとしたら、その福は多いか否か」
王「とても多いです。量れるものではありません」
仏「善男子・善女人で師から諸仏の正教を聞き、教化し広めた者は、あるいは一人でも信解させた者は、それによって得た福は、千年の供養者に比べて千万億倍である。なぜなら、法化の功は無限だからだ」

 仏は阿難に告げた。「これらの法の教えをつとめて一切の民に広めるのだ。その福ははかりしれない。阿難よ、私は今、この無上の妙法を汝に託す。宣布・教化し、衆生を済度するのだ。それは一切諸仏を供養することでもある」
 阿難は叉手して世尊に言った。「仏が託されたこの経は何と名づければいいのでしょう」
仏「この経は未曽有説因縁経と名づけよう。勤修して行うのだ」
 この時、ハシノク王、ジェータ太子、夫人、後宮の者たち、仏教団の出家・在家の弟子、帝釈天や梵天といった諸天、八部の竜神ら八十万人は、
仏の説くところを聞いて大喜びし、各々三解脱門への心を発し、仏に礼をして去り、法のとおりに行った。

 仏説未曽有因縁経、巻下、おしまい。

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