「悟」の一字に隠されたさとり

これは、昔どなたかの説法で聴いたか、本で読んだことの受け売りなのですが、ちょっと紹介させてください。

「悟」の一字には「さとり」の真実が隠されているというお話です。

人間には、眼耳鼻舌身、という五つの外界への感覚の入り口があります。
それぞれ、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚をになっています。

そして、意(心)という自分の内で完結した感覚の入り口もあります。
好きな動物を思い浮かべてください。犬でも猫でも構いません。
視覚で浮かびますね(アファンタジアの方はちょっとおいておくとして、一般には)。
聴覚で鳴き声、嗅覚でにおい、味覚はさておき触覚で触った感じ、などがまざまざとイメージされます。

「悟」の字は、「りっしんべん」と「五つの口」でなりたっています。

悟りというのは、この〈「眼耳鼻舌身意」を見ている自分〉が理解できることなんです。

お釈迦さんが説いた如実知見。「物事をありのまま見る」ということです。
「悟」を直視できる人が悟った人なのです。


……聴いた話はここまでです。
唯識の考え方で補足します。


我々は、「眼耳鼻舌身意」からのインプットをありのままには見ていません。
そこには好悪の感情や、無意識の価値判断がくっいています。いわゆる「イロメガネ」です。
悟った人は、その感情や価値判断を切り離して、感覚器官から入った情報、そして心の中から湧き出した情報を、ありのままに見られます。

はい、情報です。自分へのインプットです。
対象自体をそのまままるっと把握できるのは、理想的な超人、神様としての仏様にしかできないことです。人間だとどうしても制約があります。眼に傷があればその部分は見えにくいです。視界の端や、背後のこともわかりません。如来ならざる身は制約だらけなのです。

さきほど聴いた話と書きましたが、もう少し踏み込んだ話を言われていたかもしれません。でも、私の意(心)が覚えているのはさっきのところまでで、今の自分にはそこまでのインプットでおわっています。そして、アウトプットとしてこの文章を書いています。

人間としての限界を意識にとどめつつ、「悟」を直視できる人間となる、それが悟りなんです。






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