「日面仏月面仏」の公案

『雪竇頌古』の第三則にこうある。

挙。馬大師不安。院主問「和尚、近日尊位如何」。大師云「日面仏、月面仏」。

公案をひとつ。馬祖道一大師が病気になった。院主(寺の事務局長)が様子をたずねに行った。「和尚、近頃の具合はいかがですか」馬祖道一大師は言った。「日面仏、月面仏」

これだけである。

cbetaonlineで『祖堂集』巻十四を見てみよう。

師明晨遷化,今日晚際,院主問:「和尚四體違和,近日如何?」師曰:「日面佛,月面佛。」

馬祖道一師が翌日の朝に亡くなる前日、宵の口に院主がたずねた。「和尚、お体の具合はいかがですか。最近はいかがお過ごしですか」。馬祖道一師は言った。「日面仏、月面仏」

特に何の解説もない。

SAT大蔵経で調べてみると、『仏説仏名経』などに「南無日面佛」、「南無月面仏」といった表現は出てくる。この宇宙の始まりからおわりまでに現れる千の仏の第五十八仏が日面仏、第二百二仏が月面仏(がちめんぶつ)だそうだ。日面仏は寿命が千八百歳、月面仏は一日一夜の寿命だそうである。(臨黄ネット http://rinnou.net/cont_04/zengo/zengo2110.html)による

また、『無量寿経荘厳経』には「月面如来、日面如来」、『如来会』には「月面仏」、『平等覚経』には「仏名日月面」とある。最初は「最近は無量寿経系を読んでおります」という事ではなかろうかと思ったが、死にかけている病人にはそれも大変だろう。

数年してふと気づいた。

そのまま素直に読めばいいじゃないか!

「日に仏に面し、月に仏に面す」。

「毎日ずーっと仏に会っておりますわい」という事ではなかろうかと。

古来、日面仏や月面仏という言葉を、第五十八仏、第二百二仏、あるいは「お日様お月様」などと解釈してきたが、それは仏名としての解釈にこだわったからだ。

ご本尊でもよい、自らの仏性でもよい、仏と向き合って自らの末期を淡々と迎える。禅者の末期としてふさわしい姿ではないか。


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