宗教に関する一考察

専修学院時代に書いた宗教学のレポートです。
補足、改行の変更以外は、ほぼ原文のままです。

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宗教に関する一考察



 人が宗教に求めるものは、精神的・物質的な変化である。
 精神的変化としては、心の安寧や悩みの解決である。又、未知なる心の変化を求めることもある。禅や修験道の修行をする人にはそのような場合が多いだろう。
 物質的変化としては、いわゆる現世利益――病が治る、お金が儲かる、技芸が上達する――といた事を願う信仰と、人脈作り――芸能界での優位、有力者とのつながり、友達がほしい――といった宗教というよりは社会的な要請を主眼とするかかわり方がある。
 その他の宗教的要素としては、冥福を祈る供養のための出家、滅罪・懺悔のための出家、過去の経歴を消すための出家、といった、精神的・物質的変化を一次目的としない出家(専業宗教者への転身)が挙げられる。
 一般信者としては、「功徳にあずかる」という、精神的とも物質的とも言いがたい信仰行為や、建物、像、荘厳、庭などの景色を楽しむ、いわゆる観光にあたる行為も多い。
 さて、以上の行為の究極の目的を考えると、精神的満足の実現という所に行きつく。物質的変化を求める場合も、結局の所はそれによって精神的満足を得るのが目的である。社会的要請以下の各行為についても同様である。即ち、コカ・コーラを飲んで得られる爽快感では得るべくもない満足を求めているのである。
 この精神的満足には、結果の予測がつく物とつかない物の二種類がある。
 心の安寧や悩みの解決、物質的変化等は結果を予測してその実現を宗教に求めるものであり、その実現がなされないと苦悩となる。あるいは他の宗派・宗教へ移る事になる。
 結果の予測がつかない物としては、求道を続ける、あるいは挫折する、その中間において慣習的に宗教行為を続ける、といった事になる。
 出家ということに関しては、しかし、宗教者の世界に入らねばわからない現実が多くある。宗教者ならば「百万の経巻を読むよりも、経験せねばわからぬ事の方が多い」と言うであろう。だが、自らの経験のみで貫けば、無知であったり独善や特殊な事例へのこだわりに陥ることがある。又、教義・宗義方針として示している事に字義通り従った場合、教団からの掣肘を受け、時には弾圧・排除を受けることがある。地域的、部署的な慣習と対立することもある。思想は自由であり得ても、その発露においては宗教者は不自由にならざるを得ない。政治的、経済的、社会的な諸事と同じく。ここに多くの場合、苦悩や憂鬱が生じる。
 人間の苦悩というものは総じて「自分に都合のいい未来を想定し、到来した現実がその通りでないこと」から生じると言ってよいだろう。
 宗教に要請されるのは、この未来予想に現実を近づけることである。
 人は古来、このような不思議をなす存在を自らの外に求めてきた。これが神であり、一般的な信仰の対象である仏である。人は神仏に祈って、未来が予測に違背しないようにしてもらうのである。
 対して、仏教における成仏、あるいは悟りの獲得においては、「自分が都合の良い未来を予測し、到来した現実がその通りでないことに悩むのが苦悩の元である」という構造を理解し、その事を受け入れていく、もしくは「都合の良い未来を期待しないように心を整えていく」事が課題となる。これを言い換えると、現実自体を見つめる、如実知見を得る、直指人心見性成仏という事になる。
 おそらく釈尊在世時の成仏は、このようにして自心の安寧を得る教えであり、声聞、辟支仏(独覚)の悟りとはこのような内容であったろう。が、衆生済度をめざした大乗仏教が興隆することで、仏教の関心が悟りを求める菩提心から抜苦与楽の慈悲心へと移って行く。そして、菩薩が成仏できるにもかかわらず「願をかなえるまでは正覚を取らじ」と宣言するような事になる。

(中略)

 以上、管見の範囲ではあるが、宗教とはいかなる物であるかについての考察を記した。ご閲読に感謝します。

                               以上。

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 (中略)の部分は、当時、真宗大谷派の教学について思っていたことを述べていますが、教団を離れた今となってはせんない事なので削除しました。
 

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