夏はノスタルジー。
(ていうか私は1年中ノスタルジーかもしれんけど…)
ミンミンゼミが鳴き初めていよいよ夏本番だなぁと思ってたらラジオから、
なっつやすみは~
やっぱり~短い~♪
と聴こえてきた。
定番。
大江千里の「夏の決心」を聴くと、出てくる歌詞にそれほど思い当たるフシは無いのに(どっちかというと吉田拓郎の「夏休み」の方がリアルなのに)
なぜか、あの夏その夏いつかの夏、どの夏この夏遠い夏…がふつふつと思い出されて一気にノスタルジー全開になる。
不思議な曲だ。
(あ、今「夏」の字を連発して見過ぎて一瞬変な感じがしたのはゲシュタルト崩壊というやつか…な?)
そして8月が終わる頃には、これも誰かがリクエストするフジファブリックの
最後の花火に~
今年もなったな~♪
が流れて、
夏のラジオのお約束にまんまとハマる私は毎年毎年うっとりと聴いている。
「夏の決心」で始まり
「若者のすべて」で終わる夏。定番。
ノスタルジーって書くと何となく安っぽくも聞こえるけど、自分の中ではとっても大事。細かいことを思えば、やなせたかしさんの書くノスタルジーという字が好きだ。
やなせさんはノスタル爺さんだから。
こうやってあちこち書き散らかして、どんどんノスタルジーに引っ張られる。
私はどこへ行こうとしているのだ?
やっぱり過去へ?
夏は特にね。
もう…暑くて脳が煮えそうなので、暑さ以外に意識を持っていこうとしているのだ。
アニメ映画「時をかける少女」も夏じゃなかったかしらん?
でも、あんな夏の夕暮れに『未来で待ってる』などと言われたら、今後の未来が比較的短い私は『そ、それは来世のことですか…?』とワクワクしてしまうかもしれない。
たまには未来にも行ってみたい。のかな?
…書き散らかしている。
遥か昔の高2の夏休みに、
毎日のように手紙を書き合っては、さだまさし(及びグレープ)とNSPの違いなどを盛んに論じ?合っていた友人と最近会った。
流れた年月は多分、お互いの子供の成長が時の目盛りとなって進んで、そのずっと先の方の未来に今来ているのでしょうが、、
年とったふたりで近況を淡々と粛々と?話していても、気持ちは何だか昔の休み時間や選択美術の授業中の時のまま。
その友人(「ミルク色の朝」のKちゃん)とはクラスが違ったので選択授業の時くらいしかゆっくりお喋り出来なかった。だから、夏休みに入ると毎日手紙を書いていた。
朝の10時半ころになると郵便屋さんがやって来てポストにポトンと手紙を入れる。
私はそれを取り出し、オシロイバナの横の門柱の上に腰掛けて読むのが好きだった。
(今思うとご近所の面前でとても恥ずかしい)
あれは多分、門柱に登るのが楽しかったんじゃなくて、
はしゃいでいる私を見た母が
「まるで離島みたい(郵便物がたまにしか来ない)だね」
と呆れるほど手紙を読むのが楽しくて、嬉しくて、
思わずそこにあった門柱の上によじ登って読んだのだと思う。
まあ、どっちでもいいけれど。高2の夏休みの1日はこうやって始まった。
こんな断片的なひとコマが何故か今でもするっと出てくる。夏が来るといつも思い出す。
手紙の内容は「さだまさし」の他は何だったのかすっかり忘れてしまったのに。
たぶんその頃より気温はもっと高くて、空も風も濃く感じる未来(今)には、
ここにもオシロイバナは咲いてるし郵便屋さんも11時にはやっぱり来る。
今はもう無い、あのペンキの剥げかけた門柱の上まで戻ってしまいそうな、ノスタルジーな夏の時間なんだけど、、
そうだ、今度Kちゃんを誘ってさだまさしさんのコンサートに行ってみたいなぁ、私はもう20年くらい行ってないけど。チケットが取れたらだけど。
などととっても良いことを思いついて、にわかに現実に戻って来た。