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小生、風俗店レビューががんすでごわす

 その昔、「なぜ風俗店のレビューには一人称が小生の人で溢れていると思います?」と尋ねられた事がある。今であればそんなこと知るかアホバカマヌケ自分で調べんかいと、冷たく突き放すだろう。だが、尋ねられた当時は僕もアホバカマヌケの党員だったので、これについて真剣に考えた事がある。
 そも、一人称というのはかなり大事である。文章や会話、言語化が出来るものなら全てにおいて大事だ。一人称はただ単に自身のことを指し示す役割のことではなく、己が持っている自我を表す役割を担っているからだ。その考えの基に、この日記上では一人称は「僕」であるし、私生活では「俺」であり、ビジネスの場においては「私」であるのだ。
 これは以前書いたことだが、この三つの一人称「僕」「俺」「私」はそれぞれに確立した自我を形成しており、それぞれのシーンで使い分けている。その使い分けが有るからこそ、一人称というのはただの総称などではなく、自我を表す役割を担っているのだ。わぁ、なんかキレイに纏まった。

 それはさて置き、小生の話である。
 ”小生”。いつ聞いてもゾワッとくる気持ちの悪さがある言葉だよなと思うのは、本来の意味合いとして「自身(男子)のことを謙って指す」言葉だからと思う。なんじゃい謙るって。お前はいつ謙んのよ。風俗店のレビュー欄でか?と、毎回謙るという箇所に引っかかる。なぜ風俗店利用者たちは小生を自称するのだろうか。
 当時に思ったのは、小生を使う人の心境である。謙るからには、相手を敬い自身を卑下なるものとして扱う必要がある。卑下なるものは風俗店利用者の自分だとして、敬うものが必要になる。ここで敬うものは何になるかと言うと、レビューを読んでいる人間しかいない。もちろん、風俗店のレビュー欄に書いた文章であるから、利用する予定のものが読むに決まっている。その者たちを同士かなんかだと仮定した上で文章を拵えているのだから。しかし、風俗店ひいては泡嬢に対してはどうであろうか。敬っているのであろうか。
 もちろん、敬っているはずである。小生を使うような謙りがうまい人下であるはずだから、泡嬢に対して、「小生は止事無き貴女のせぐろに頭を垂れ申しまする」と言っているはずである。詳細は知らないが言っているはずである。なにしろ謙っているのであるから。
 しかし、そういうことは起こらないであろう。小生が敬っているのは、レビューを読む同士であり、風俗店・泡嬢では無いから。利用する人の一人称は多分、「俺」か「私」だ。小生なんか口にした途端、ボーイが法螺貝を吹き鳴らし入口から足軽たちがドワワと押し寄せてくるはずである。
 おこがましい話である。慰めを求めながら入店し、店を出た途端に卑下た存在であると自称する。はっきり言って意味がわからない。なぜ、自身を卑下する必要があるのか。自身を卑下なるものとして扱うのであれば、風俗店をダーティーなものとして扱っているようなものである。 
 性産業に対して何も偏見がないのであれば、はっきりと「俺」という一人称を使えばいいのでないか。自身を卑下する”小生”という言葉を風俗店のレビューで使っていると、風俗店に対しても良いイメージならないし、小生という言葉に対しても「不浄なる存在を示すでやんす」みたいなイメージが付いてしまうのではないか。ああああぁぁ、なんかだんだん小生という言葉が嫌いになってきた。気を晴らすために、小生ここで歌わせていただきます。左手にマイク、右手に酒を持ちながら。

〽初めての街で いつものさぁーけぇー やぁーっぱりおーれはー 菊正宗 きくまぁーさむねぇー

 ということを、当時は考えていた。アホバカマヌケである。

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