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部屋の中で先細るしかない

 外に出て人と会話し景色を享受しない限り先細っていく。部屋に籠もってじめじめと本ばかり読んでいると、つまらない人間になっていくぞ、ということだ。これは押井守の言うところの「マンションのドアとドアを行き来するような映画」であり、起伏がなく平坦でつまらないものと言っても差し支えない。
 会社に行くため外に出るが、仕事の話以外を口にすることはせず、仕事を切り上げれば自宅に戻り、栄養補給・生命維持のためだけに飯を食く。途中途中で仕事のことを思い出し、多少の憂さ晴らしになればと思い酒を飲む。空いた時間には小難しい本を読んではなぜか賢くなったような優越感を持つが、優越感の向かう先は具体的な誰かに対してではなく抽象的で漠然な見えない何かに対して向けている。いっちょ文章を書いてみるかと思い立ち書いてみると、あやふやで着地点も疎らな文章が完成する。それで満足がやってくるはずもなく、ただただ恥を言語化しただけだと頭の中にモアモアを発生させながら床に就き、また会社へ行く明日を迎える。此れを繰り返す。気が狂うほど。先細る。
 亀を眺めることにした。亀というのは一定の大きさにものすごい速さで成長すると、あとは緩やかに大きくなっていきノロノロと年齢を重ねていく。人工的に孵化した亀に物語は存在せず、人の手に育てられた事実だけが浮遊している。その物語が存在しない亀は先細る未来はあるのだろうか。亀はきちんと管理すれば何十年も生きる可能性があるし、知らないところで万年単位で生きうている可能性も捨てきれない。そんな亀には先細る未来はあるのだろうか。
 甲羅を眺めることにした。亀の甲羅は木の年輪のように、成長すればするほど皺が刻まれていく。デカい亀ほど甲羅がしわしわになっているのはそのせいだ。以前、動物園でゾウガメを触ったことがある。甲羅が岩のように凸凹しておりかなりの年季を感じた。ゾウガメは少女を背に乗せてゆっくりゆっくりと前進したり、後退したりしていた。ゾウガメは人工的に孵化され人の手が加えられながら成長していったが、少年少女を背に乗せるなどして人と関わり合って生きている。関係を重ねながら生きている。動物園のゾウガメは先細ることはあるのだろうか。
 山を眺めることにした。草むらを仔細を観察していると、亀の甲羅だけが転がっていた。中身は無く、キレイに甲羅だけが残っていた。亀の甲羅というのは、亀の肋骨が変形し筋肉をせり上げ、表面を角質版という皮膚が変質したもので成り立っている。つまり、デカい爪のようなものに囲まれているということだ。その特徴的な甲羅が、中身をなくして転がっていた。きっとカラスに襲われたり、なにか不幸な自体に陥って死んでしまったのだ。その結果、中身だけが風化し甲羅が草むらに残っているのだろう。人の手が一切加えられていない野生の亀は不憫な結末を迎えたが、亀の生涯は先細っていたのだろうか。
 衣装ケースで買っている亀の水換えを行い、本日も外界に出ること無く意味のない事を考えていた。先細る。


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