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コーマック・マッカーシーを教えてくれてありがとう、そして本来の自然について考える

 本日は仕事納めであったが、相変わらず社内ニートに勤しんでいる僕はなにかの仕事をすることもなくネットサーフィンの業務に心血を注いでいた。そのサーフィングで知ったのだが、コーマック・マッカーシーの翻訳が来年中には全て刊行されるらしい。なんちゅうことだ、未だ翻訳されたものは全部読んでいないとはいえこの知らせは本当にありがたい。まだまだ生きることは面白くなるっちゅうことですたい。
 それは横に置き、今はマッカーシーの『平原の町』を読んでいるのだが、この中ですごく美しくて感銘を受けた一節について少し書きたい。その一節を少し引用する。

たいていの馬はここへ連れてこられる前にだめになっている。最初に鞍を置かれるとだめになるんだ。それより前って場合もある。いちばんいいのは仔馬のときから面倒を見た馬だ。それとも人間を一度を見たことがなかった野生の馬だな。野生の馬は直さなくちゃいけない悪い癖がひとつもないからね。

コーマック・マッカーシー、平原の町、P88

 この野生の馬が美しいという部分にかなり惹かれたのだ。
 人は自然の美しさを形容する際に「人の手が加わっていない自然本来の美しさ」というニュアンスを含んだ言葉で表現しようとする。僕はこの言葉を聞く度に「自然本来の美しさとは」という果もない疑問を頭に浮かべている。自然本来の美しさとは一体何なのだろうか。
 きっと、その形容を使った側は「人の手が加えられず伸び伸びと育った感じ」というニュアンスで自然本来の美しさという言葉を選んだのであろうが、それは本当にそうなのだろうか。自然が人を気にせず成長している領域に人が介入してそれを喧伝した瞬間に「自然本来の美しさ」は消滅してしまうのではないだろうか。
 話は変わるが、僕は一時期山に行ったりきたりして写真を撮っていた時期がある。年数にして約三年。仕事をすませば山に行くという生活を送っていた。そこでは目当ての動物を写真に収め後でそれを眺めウハウハ言うこととが主目的であったが、そういう生活を重ねていく中で、なぜ動物を写真に納めたいのか、なぜ動物に興味が惹かれるのか、なぜ動物はこの環境で生きているのか、という疑問が浮かぶようになった。
 その疑問に対して、確かな答えを得ることは出来なかったが、一つだけ鍵を入手した事がある。それは「人の手が加わらない自然は美しいのでは」というキーワードだ。これは言語化することが非常に難しい。難しいが、右に述べた「人の手が加わっていない美しさ」とは乖離した考えだと思う。
 右に述べたことに戻るが、「自然本来の美しさ」とは何のだろうか。人の入らない未開の地に行ってその景色を眺めた際に思うことだろうか。はたまた、人の手を加えて元ある生態系を形成した暁に発する言葉であるのか。僕はどちらも正しくないと思う。
 思うに「自然本来の美しさ」というのは、人の手が介入した瞬間に消え失せてしまう幻のようなものではないかと思う。僕は山に入り込んで「自然本来の美しさ」を探してみたが、それに遭遇することは一度もなかった。
 動物に出会って写真を撮っている最中も。山の中で天候の急変に合い土砂降りの中で過ごした際も。自然本来の美しさに出会うことは本当に無かった。
 なぜ出会うことが出来なかったのか、という理由は明白になっており、僕という人間のレンズを通して自然を眺めると、それは美しいものだという脳のフィルターを通して理解をする。
 つまり、自然には本来の美しさというのは確かに存在しているはずなのだが、僕といった人間というフィルターを通して理解をしようとするため、自然本来の美しさが人工的に都合のいいように解釈され本来の美しさが消滅しているのではないかと考えるのだ。
 故に、「自然本来の美しさ」というのは人間が都合のいいように解釈された概念ではないのかと思うのだ。これが「人の手が加わっていない自然本来の美しさ」の正体ではないかと思う。
 では、僕が言うところの「人の手が加わらない自然は美しい」とは何なのだろうか。
 じぶんでいっておきながらこの観念を言語化することは本当に難しい。右に述べたような「人間というフィルターを通して自然を理解すること自体、すでに人の手が加わっている」ということは容易に説明が出来るのであるが、「人の手が加わらない自然」を認識するにはどうすればいいのであろうか。そこが理解が出来ずにたいへん苦しんでいるのだ。
 一つ案として思い浮かぶことは、自然を実際の自然として目にしなけれないいのではないのかと思う。
 一体何を言っているのだ、気が違いましたか?と思うのだが、そうやって意味のない冗談を考えることは、大体が自信のない持論を振りかざすタイミングである。気、違っていません。あなよろし。
 自然を実際の自然として目にしない。どういうことか。
 右に述べたように、人は実際の自然を前にすると「自然本来の美しさ」として形容する。であれば、その実際に目にした自然の向こう側、未だ目にしていない自然を想像し美しさを想像することが「自然本来の美しさ」を持っているのではないかと思う。
 何が言いたいのかというと、実際に目にした自然のその先の向こうの自然、人の目が届かない自然、創造で補うことしかできない自然の中にしか「自然本来の美しさ」は存在しないのではと言いたいのだ。人が自然を目にした瞬間、人工的なフィルターがかかると言うのであれば、自然本来の美しさは想像の中でしか存在し得ないのではということだ。それこそが「人の手が加わらない自然の美しさ」ではないのか、ということなのだ。
 右に述べた『平原の町』 の一節だけで、これだけのことを考えた。未だ半分も読んでいないのだけれど、これからどんな展開になるかもうむちゃ楽しみです。

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