「この水は高価なものですが特別に売っています」
最近、90分間の間を座して人の話を聞く体験をした。
小中高時代、授業を座して何も考えずに教師の話を聞き、疑問を思い浮かべること無く黒板に書かれた文字をノートに書き写す作業を行っていたのだが、集中力が途切れることがなかった。これはなぜかと考えると、『黒板に移した文字を視覚で享受する⇛特になんの疑問も思い浮かべずにノートに書き写す』という行為があるからこそ、集中を欠くことがなく対応できたこともあるだろう。視覚から得た情報を具現化する為に、身体の一部を動かし真っ白なノートを塗りつぶす。特定の行為を反復するだけ集中力というのは維持される。
しかし、童子の時代から比べて成長した今はどうだろうか。人の話をきいたとて、全てを板書をする場面は訪れない。透過、板書なんてする場面が訪れない。例えば、職場の会議にて「議事録オネシャッス」と頼まれたとて、記録するのは要点ばかりで会議全体を記録することは一切ない。タイピングにて出来上がった文書は、『売上がヤバいなと深刻な話をしている中で、部長が屁をこきながらクシャミを放った。”なんすかそれ(笑)”というツッコミも起こること無く、淡々粛々と進んでいたが、少し経ったタイミングで部長がいきなり席を立ちトイレに直行した。その後、立てこもりながら僕の名前を絶叫しながら着替えを要求してきた。このせいで、部長はクシャミで屁をこきながらクソを漏らす人なんだなどというあらぬ噂が広まった。決して僕のせいではない』などという無駄な情報など一切無し、キッチリとした社会の情報だけが詰め込まれている。
こういった感じで、『人の話を聞く』=『議事録的なものを手元に残す』という図式が僕の中で完成している。それ故に、人の話を聞く際は「メモとか必要っすか?」とうお伺いを立てることが多い。この癖は社会人になってから身につけたので、社会に溶け込んだ故の弊害と捉えることができるかもやしれない。相手が話を始めたタイミングで、「すんません、メモとっていいすか?」と慌てながら口走るのは悲しい限りである。
して、話を「90分間人の話を聞く」に戻すと、これがもうダメダメであった。超ダメダメだった。まず集中ができない。学生時代は「ここでは集中をしながら人の話を聞くんです」という場が用意されていたので、なんの疑問も持たず人の話に集中できることができた。しかし、その場から解放された今ではどうだろうか。なんも集中することができないのだ。これには大変にまいった。「自らお金を払って人の話を聞きに来た」という、前述したような環境とは異なれど、前述した環境でも金銭は発生している。自ら負担することは無い小中高時代でも発生しているし、会社員でも交通費などの様々な面でコストが発生している。そんな中で人の話を聞く事ができなかったのだ。
なぜ集中できなかったのかを今になって考えているのだが、どうしても思いつかない。登壇した人が「この水はとても特別です。チベットのウンタラという秘境で採取したので、ここに用意した分を揃えるだけでとても苦労しました。しかし、本日は集まっていただいた方々に特別で売ろうと思います。1本5,000円からです!」という言葉を聞いてから記憶がなくなったことまでは覚えているのだけれども。
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