見出し画像

自由自在な熟語、一球入魂

 一球入魂という言葉がある。
 その言葉を初めて見かけたのは学生時代だった。教科全日程の終わりを知らせる鐘、放課後に沸き立つ学生たち、それを尻目に部活室へ向かう僕。なんとなく楽しいと思っていた運動にのめり込み時間が過ぎ気がつけば空は段々と朱を帯びてゆく。その朱を背景とし他の部活動が掲げている横断幕にはこう書いてあった。一球入魂と。
 それが一球入魂という熟語に出会った初めての記憶であった。
 して、この熟語だが、賢明なことに意味が存在する。大体の意は「一つの球に魂を入れて解き放つ」といった具合だろう。決して、一球放つ前に人民をひとりひとり生贄に捧げ球を放つという意味合いを含んでいない。含んではいないが、そのぐらいの気持ちを持って球を放ていう具合だろう。
 してこの一球入魂だが、かなりの汎用性または応用性を有していると言える。なにせ、入魂という「なんか魂込めたらいい感じの具合になるっしょ」という抽象的で判然とした詞がついているが故に、前に付く言葉はなんでもいいと言わんが如く何物も受け入れるからだ。さながら、穴があれば何でも良いと言う若者や、竿で慰めてくれるなら誰でもいいという若人のように。
 例えば、一蹴入魂。これは球を足蹴にするフットボールクラブにて稀に見る造語であるが、理解る範囲で紐解いてみると「シュートで俺達の部の存亡が掛かっているのだから真剣に球を蹴れ」といった具合だろうか。此れは結構な確率で見ることがある。
 さらに例えると、一走入魂。これは走ることに生きがいを感じるマゾヒスト達が掲げる造語であり僕が解するものではないのだが思うに「一度一度の走りを真剣に考え、まるで魂を込めるが如くこのひとっ走りを大事にする」という感じだろう。
 こういう具合に、入魂に関わる造語はかなりの数が存在している。しかしながら、そういった造語は見た人間をなんとなく納得させる力を有している。一球入魂だってそうである。この言葉を目にした時、何となくであるが、切磋琢磨した野球児が頭の中で思い浮かぶ。努力して努力を重ねマウンドに立った球児が思い浮かぶ。大変都合のよろしい存在であるなと思うが、それを想像させる力が「一球入魂」にはあるのではないかと思う。
 話は変わるが、最近、判然とした気持ちを抱えながら通りを練り歩く行為、つまるところの散歩に興じていた際に、工事途中の家屋に突き当たった。防音シートで包まれており、周りに絶対迷惑をかけませんという気概を感じる様相であった。
 その建設途中の家屋に垂れ幕が下がっていた。自社の広告であろうと思いながら目をやると、「一棟入魂」という文字が踊っていた。
 驚愕した。此処までかとも思った。よりにもよって棟、家屋なのである。もし此れを言葉通りに解釈すると「一つ一つの家屋を建てる度に、一人の魂を捧げて建設作業に取り組みます」と言っているようなものだ。此れ即ち人柱の儀。つまりは、生贄を捧げることを是としているのである。
 人柱というのは、宮殿とか神殿、橋などのインフラという大規模な建造物を作る際に、何もありませんようにと無事故・無災害を紙に祈るために人間を生贄に捧げる風習である。これは百姓やら農民やらの命が霞より軽い時代の風習であるがために見過ごされてきたものである。それが故に、現代のような人命が何よりも重いと考えている時に人柱を行うとかなり大変なことになる。具体的に書けば、人柱を実行した民たちは業務上過失致死傷罪に問われるだろうし、囃し立てた民たちは殺人幇助の罪に問われることになるだろう。そのぐらいに現代においては恐ろしい風習なのだ。
 それが今僕の目の前にて行われようとしている。いや、あるいは行われた後であろうか。「一棟入魂」。果たして、この将来出来上がるであろう家屋に住む一族は誰を犠牲にしたのだろうか。足腰立たなくなった老人であろうか、将又、近日生まれたばかりの幼子であろうか、将又、働き盛りの若人であろうか。どちらにせよおとろしい、あなやおとろしい、と呟きながらその場を後にした。
 判然とした気持ちを抱えながら通りを歩いて三千里。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?