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ビバノンノto文章

 某所へ寄稿しようと思いたち文章を拵えていたのだが、文章の中に必要なブツというのが懐にないと気が付き、各所各所へ回ってみたのだがどこにも無い。困り果ててインターネットを介して注文を行ったところ、届くのが3月下旬。3月下旬。そこまでモチベーションを保つことができるのであろうか。保つしかない。なぜなら注文してしまったから。退路はもすでになくなっている。にしても一ヶ月後。日にちすると20日以上。長いこと待つことになるなと呆れ果てているところでございます。
 はっきりって、消費具合というか需要について舐めているフシが合った。具体的に言うと、あんなん誰に需要があんのとか、こんなの誰も買わないだろとか、僕以外にほしいやつはいないねこれはとか、そういった具合に人々の需要もとい欲望を舐めきっていた。そんな阿呆な態度を取り続けるものだから、必要なものが必要な時に手に入らないという素っ頓狂な事態に陥るのだ。必要だなほしいなと思った際には、その瞬間に行動を起こすべきであって、阿呆な態度を取り続けることはSuper Idiot、日本語でいへばバカアホマヌケという具合だろう。まさに今の僕のように。アッと思ったら手に入れるべきなのだ。
 それはさて置き、どうしようかと思う。拵えた文章を寝かせるのは良いとして、寄稿しようと思っていたこの気持ちの憂さ晴らしはどうするべきだろうか。寝かせるのは良い。しかしモチベーションはどうなるというのであろうか。モチベーションつまり文章を拵える気力。今作ったものを無視してまた新しい文章を拵えるべきであろうか。それも答えの一つだろう。つか、それが正解だ。それが効率的というものであろう。しかし、それも難しい。人前に見せる文章というのは自身が感動したものだとか、感慨深く思ったものだかを基にして文章に反映させる。そして、感じたものは無限にあるわけではない。有限の中から拾い上げて一つの形にする。それをまた構築するとなると中々に骨が折れる作業なのだ。
 であれば、どうするべきか。簡単である。湯浴みに行けばよろしい。湯を被って全てを忘れてしまえばよろしい。しかも、いい塩梅の距離感で近所に銭湯がある。入り口で入場料を払えば暖簾をくぐることができる。中に入ればタイの子供が微笑んでいるポスターが張ってある脱衣室と、真ん中にドンと鎮座している湯船と洗い場への仕切りは無く、一室としてスペースとして成り立っている。身体を入念に洗い、湯船に入ればアルカリ性の湯質で入れば肌がぬらぬらして心地が良くなる。そんな銭湯が近所にある。であれば、湯を浴びながら今後どうするか考えれば良いのではないか。相分かった。では、いざゆかん。


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