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コミュニティに加わるということ

 友人から、年末にどこどこへ集合で何かの仕込みをするから手伝って欲しい。ここに来てくれ。と、依頼があった。何をするのかわからないことが多いし、もしかしたらイノシシと素手で格闘戦をするかもしれなと不安になってきた。さすがにイノシシと格闘することはないだろうとは言え、阿呆になるぐらいに酒を飲まされるのではないかともうヒヤヒヤとしている。おぉ、怖い。
 もちろん、誘われたことは嬉しい。ただで酒を飲める機会かもしれぬので小刻みステップで向かう予定だ。時速四キロのステップで。誰にも止められぬ遅延列車と化すのだ。して、ここで気がついたのだが、特定のコミュニティに組み込まれたなと実感した。
 人は生活を送っていると、自発的・受動的に関わらずコミュニティに属することになる。一番身近なコミュニティといえば親族という括りだろう。これは人が生きていく中で一番初めに属するコミュニティだ。
 親族というコミュニティは、父がいたり母がいたり父の母がいたり父の父がいたり母の父がいたり母の母がいたりする。そこで人間関係や意思疎通の基礎を学び、順当にいけば学校というコミュニティに属することになる。そこから友人や同好、部活などというコミュニティが細分化していき、社会について学ぶ。そういった感じで年齢を増す毎に属するコミュニティが増えてゆき成長していく。もちろん、これは現実に限った話ではなく、インターネットといった物理の境界線を超えた世界でも当てはまる話だ。
 僕が属することになったのは、地域というコミュニティだと思う。なにせ呼ばれた場所には一人二人の友人いれど、あと複数人は知らない人しかいないのだ。更に言うと、そのコミュニティは、僕以外の人間はその土地に住んでおり、完全に僕が外様の人間として迎えられる。正直、何を話していいのかわからないし、心細いし、億劫だなと思うのだが、こういう機会はそうそうは無いので行くことにした。胸中には酒がただで飲めるかもしれないという期待感で一杯なのだが。ああ、早く酒が飲みたい。酒を飲み腐り脳にバグを起こさせたい。
 コミュニティに属するということは生きていく上で避けては通れぬ道の一つであるがゆえに、結構面倒臭いことも生じる。嫌になれば抜ければいいし、心地よければとどまればいいだろう。しかし、コミュニティに属さずに生きることはむっさしんどいだろう。コミュニティに関わることがなければ、今日の僕みたいに酒の恩恵を受けることはおろか、下手したら誰とも関わらぬまま孤独死真っ逆さまである。それでも属することが嫌と感じるなら、自身で作り上げるしかない。それはそれでかなり面倒と思うのだが、どうだろうか。酩酊コミューンとか。

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