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真剣に酒を飲むということ

 最近、真剣に酒を飲むことをしなくなっているなと思う。真剣に酒を飲む、とはどういうことか。快楽を接種するものであるところの酒を真剣に向き合うというのだろうか。それとは少し違い、ここでいうところの真剣というのは「マジ」だということだ。
 真剣に酒を飲む。それは、酒を選び選んだ酒を飲み酩酊に陥り一秒先の未来に絶望を抱き枕を涙と嘔吐物で濡らしいつの間にか気を失う、ということだ。この一見、屑まみれに思える行動には、酒を飲み絶望を感じること以外一切を排した真剣なる行為そのものになるのだ。
 一方、今ではどうだ。酒を飲みこういった文章を拵えることはできるのだが、それが終わった折には何が起こるのか。何も怒らないのである。あれだけ隣に鎮座し、俺の耳元で悪魔の言葉を囁いていた絶望も、涙と吐瀉物でグズグズになった枕もどこかに消え失せてしまった。未来に絶望を感じるどころか、酒を飲んでしまうと漫然と何もできなくなってしまうなぁ、もういっそ酒を飲むのやめたろかなぁ、と考えすら湧き上がってくるのだ。空虚。ひたすらに空虚が広がるのだ。あなや、おとろしあ。
 学生時代、なかでも高校時代においては、教師たちが「貴方の未来は無限の可能性に満ちている」といった希望を語っていた。そんな事を常日頃から聞かされていたものだから、俺には何かしらの可能性が砂山のようにあり、砂山の中にある何かしらの可能性を好きに掬うことが出来いつしか花開き救いとなる、その救いがやってくるまで漫然と過ごしたって構わない、と考えていた。しかし、実際は何かしらの可能性というのは一粒の砂であり、その一粒を掴み取るためには無限の努力をしなければならない。俺のように漫然に日常を消費したとて、得られるものは砂にもならない屑だけである。
 あの教師たちは「貴方の未来は無限の可能性に満ちている。が、その可能性を掴み取るためには無限の努力をしなければならない」と言うべきだったのではないだろうか、とも思ったが、後半部分は自発的に気がつくものであって、わざわざ教師が言う事でもないのだ。
 つまり何が言いたいのかと言うと、今の俺にはまた真剣に酒を飲む資格が起き上がってきたということだ。一口酒を飲む毎に絶望が離れていくような感覚、四リットルあるタカラ焼酎を一晩で全部無くすような飲酒、記憶を無くした彼方で自身の行動を思いだす恐怖感。それらを抱えながら酒を飲む。空虚を力尽くで抑えこむ何かしらの未来を勝ち取るには、真剣の飲酒という無限の努力を重ねなければならないのだ!ンガガガガ!!まびゅらふぁう。
 と喚いている友人を横目に、僕はウーロンハイを流し込んだ。あ、ラフテーきたわ。ばはは、こりゃ柔らかくて美味い。食べる?え、豚アレルギー?あっそ。残念ですなぁ。して、ねずみ講の話だっけ?という、飲み会が昨日行われた。友人は店を出た瞬間、ヘドロが溜まりきった側溝にハマりそのまま安謝川まで流されていった。未だ連絡は取っていないが、多分バイトは休んだのでないかと思う。

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