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感想は忘れるからすぐに吐いた方がいい

  あとがきと解説を読むのが好きである。映画のパンフレットや小説、エッセイを読んだ後にそれらが載っていると、自分の感じたことや思ったことと、載っている解説とを比べて、すぐに誰かと感想を共有している気持ちになる。
  映画を観た後が特に顕著なのだが、何かを観た後は感想を誰かと話したいし、できれば溜め込まずにすぐさま吐露しておきたい。これは自身の感情をその場で吐いて置かないと、その時感じたことや疑問に思ったことが腐ってしまうような気がしてしまうからだ。腐ってしまうとはどういうことだろうか。
  生活の一部で考えてみると、あくる日、麻婆豆腐を食べたくてどうしようもなくなった。絶対絶対食べたい。絶対きょう食わないと死ぬ、と思うぐらいの気持ちで豆腐と挽肉を買った。ああぁこれで死ななくて済んだ良かった良かったと、ルンルンスキップで家に帰り、買ったものを冷蔵庫にぶち込んで夕方に拵えようと、他の作業を始めたのだ。窓辺に西日が差し込んで夕刻が近づき、さぁ拵えようかとキッチンに立った途端、麻婆豆腐を食べる気持ちが全く湧かなかった。食べんと絶対死ぬと、あれほど食べたいと思っていたのに、そこいらにある適当な野菜とひき肉を炒めて済ませてしまったのだ。
  こうなると、先程まで命綱尚且つ輝く希望としてとして輝いていた豆腐はどうなるのか。別に豆腐が食べたかったわけでもなかったので、このまま冷蔵庫で自身の出番を待つのだろうか。いや、そんなことはない。このまま朽ちて、三ヶ月後あたりにあん?なんじゃいこいつは?と掘り返され捨てられることだろう。あぁ、なんと哀れな豆腐。
  何が言いたいかと言うと、感想というのは麻婆豆腐が食べたい欲望や豆腐のようなものである。麻婆豆腐が食べたければすぐさま食べに行くか調理するかで対処しなければならない。すぐさま対処しなければ、朽ちて忘れ去られてしまうのだ。感想も同じことで、何かを観た読んだ後にすぐに感想を履かず誰かと会ったときのために熟成しておこう、と考えていると必ず忘れる。あの日の豆腐と同じように。
  熟成という手もあるだろう。だが、熟成というのは多くの工程を重ねた上で成立するものであって、次誰かに会った時に話そかな、ぐらいの面持ちでは熟成とは言えず、ただ打ち捨てているだけだろう。それなら、いっそのこと忘れてしまったほうが良いような気がする。
  と、こんなこをうっさく書いているのだが、今日会う人に呪術廻戦のアニメめっさ面白かったという話をしようと思う。最後に観たのは2週間前。多分豆腐のように朽ち果てている。

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