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脳汁溢れる目合い

 脳汁が溢れる、または、脳汁が湧くという表現がある。これはとてつもない興奮や達成感などを味わった際に言いようのない快楽を覚え、脳の中に液体が溢れるというような比喩表現だ。実際には脳汁などという液体は存在せず、脳の中に快楽を促進させる液体が巡ったり、こんこんと湧き出ることもない。あるのは、医学的・科学的に証明された無味乾燥な神経物質だけである。
 僕はこの脳汁溢れる瞬間に遭遇したことが無い。というか、脳汁という言葉自体、元はパチンコなどの博打からきているものである故に、賭け事と関わりの無い僕からしてみれば一切縁の無い言葉の一つなのだ。決して、競馬にのめり込んだ時合にアホみたいに金を稼いだなどという成功体験が存在しないから言っているわけではない。そう、決して。
 できれば、その、脳汁溢れる瞬間というのに遭遇してみたい気持ちがある。其れってどんな瞬間なのだろうかと想像してみたところ、やはり初めに思いつくのは、理解できないほどの大金を手に入れた瞬間だ。手段はなんでもいい。竹藪の中から違法投棄されたものを見つけてもいいし、みのもんたが司会をしているクイズ番組で獲得してもいいし、人を後ろから殴りつけて奪い去ってもいい。なにかの手段を講じて得た報酬というものは達成感に溢れ興奮を齎すだろう。
 しかし、こういった安直な想像ではどうも現実味が無さ過ぎる。脳汁という架空の存在とは言え、快楽というのは現に存在している。現実とかけ離れた想像をするのはnonsense───無意味だろう。なので、もっと具体的で現実に沿った想像をすし、脳汁溢れる瞬間の理解を深め、欲を言えば遭遇する確率が上げるができないかを考える。
 例えば、僕が鎌倉時代の貴族だったとする。もしくは平安時代の貴族でも良い。貴族というのは特権を有する上流階級が故に高貴で尊い存在と思われがちだが、実際のところ、乳を吸ったり触ったり、陰茎を振り回したり、田んぼからケツだけが出ている様子をを見て爆笑するなど、俗っぽいことが大好きな人間である。貴族である僕もご多分に漏れず、俗っぽい集団の中に属しているのだ。
 そんな俗人間である僕の前に、とんでもなく容姿端麗な女が現れたらどう思うだろうか。「うわ、この人美しすぎてマヂヤバい。どれくらい美しいかと言うと、あまりの美しさに後ろ光が差しているし、其の光が照らしたものは一瞬にして浄化され、川の汚染とかすぐに無くなったし、隣村の疫病が一瞬にして良くなった。すげぇ、マヂにヤバい。つか、こんだけすごかったら、このお方はきっと神が姿を変えて降臨しているのかもしれない。讚えたい」と思うだろうか。いや、そんなちゃちなことは思わない。きっと僕はもっと本能的、直線的に考えるだろう。「やりたい」と。
 この「やりたい」を成就するため、貴族コロ助は粉骨砕身、一意専心、発憤忘食、やるべきことに取り組むであろう。意味のわからない和歌を無理やり詠んでは女のところに投げつけに行ったり、弓をビャンビャン鳴らすなどして己のPowerを誇示したり、チャラい色をした直垂など着ては笛をゲインたっぷりで奏でたり、など、一心不乱に努力するだろう。
 その努力がじんわりと効力を成していき、遂に女の家に上がることができるようになるだろう。時は秋で、夜は長いし気温もいい具合に涼しい。虫どもが心地のよい音量でコロンコロンと鳴いている。月明かりに照らされた女の顔は艶やかで冷たい美貌を放っており直視できぬほどであった。それでも、直接対面できたことに嬉しさを覚え、なんとか気を引こうと様々な話題を振ることにする。女も気分が乗ってきたのか返事をするなどして二人の間にある氷は段々と解していく。
 気がつくと、指先にちょろちょろと触るものがある。なんだろうかと目を向けると、細く長い白いものが着いたり離れたりしている。凝と見てみると女の指であることに気がついた。とんでもなく気分が高揚した。全身の血が巡るスピードが早くなるのを感じる。このままスピードが早まってしまっては死ぬのではないのだろうかと思った。きた、遂にきた。現実に変わった羨望が目の前で踊っている。こんなことは金輪際無いだろう。ちょろちょろ触り合っているいじらしい時間を経て、目合い。二人の世界が混ざり合ってグチョグチョになり「やりたい」が成就されたのだ。
 つまり何が言いたいか。本当に何が言いたいのか。詰まりは、今まで積み重ねてきた行動が解放される時間に脳汁がビチョビチョに溢れ出て快楽の海に没するのではないかと思う。考えてみれば、こんな結論は真っ先に思いつくべきであるし、右の冒頭にも既に記載がなされている。ではなぜ、貴族などという時間が必要であったのか。それはもう僕にもわからない。僕はもうなにもわからない。


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