見出し画像

選択の余地 in The 餃子

 先日、友人と共に飲み屋に馳せ参じたのだが、これはどうするべきなのだろうかと考える場面に遭遇した。つまるところ、選択をしなければならに場面に遭遇したのだ。
 選択というのは人生について回る決断の一つである。この場面ではこの選択をすれば概ね納まるであろうとか、AとBとであればエイトビートであるとか、やるか死ぬか Do Or Die レペゼンアムラーみたいな。日々穏便に暮らしているはずなのに、実際の生活に目を向けてみるとDEAD Or ALIVE 選択にまみれて暮らしている。選択を放棄してしまうとどうなるか、無難、というかどんどん当たり障りのない方向に物事は転がっていき曖昧な結末を迎えることになる。その状態はなんともむず痒く、モキモキした気持ちになることにちがいない。
 選択というのはすごく大事だ。それがたとえ酒を飲んでいる場合においてもだ。酒に酔って脳・判断が狂っている状況においても選択はお構いなしにやってくる。さながら命を付け狙う殺人者の如く。寝ていようが、飯を食っていようが、女を抱いていようが。選択にとっては何も関係が無いのだ。
 話を戻して飲み屋にて、僕はとある選択に迫られた。今ここで店側の矛盾を追求し暴れ尽くしてメチャクチャを行うか、それとも、行われた矛盾に対して見て見ぬふりを突き通し何もありませんでしたと無干渉を通すべきなのか。どちらかを選択してしまえばすぐに済む話であるのだが、実に悩ましいことであった。
 餃子を頼んで30分以上やってこなかった。餃子が、だ。飲食業に暗い身分であるのでわからないのだが、餃子が30分以上経ってもこないことは何かの異常が発生しているのではないだろうか。例えば厨房でガスが漏れて火を使うことが出来ないだとか、餃子の在庫がなくなって緑の看板を有しているスーパーマーケットに走っていったのか、それとも従業員が魅せの金をくすねて飛んでしまったのか。
 どちらにせよ、異常事態であることには変わりない。状況を把握するために周りを見渡してみると入店時と変わらず人が少ない光景が広がっている。後ろには、鈴木宗男とロシアが好きなオヤジと田中真紀子とイスラエルが好きなオヤジが舌戦を繰り広げてる。僕を含め他に客がいない店内は伽藍堂のような空虚感に満ち満ちている。店員に目をやってみる。Twitterでもやっているのであろうか、スマートフォンから目を話すことはない。
 大変にまいった事態に陥ってしまった、そう直感するに時間は要しなかった。状況の整理をすると、僕が頼んだはずの餃子は厨房まで注文が届くことなく虚空を徘徊。店員はそれに気がつくことなく阿呆なマフィンの話題に夢中になっており、後ろではオヤジたちが世界情勢を我が物顔で語っている。ここで僕はどうするべきなのだろうか、選択が迫られていたのであった。
 二つ選択肢がある。右に述べたように、メチャクチャに暴れるのか、じっと我慢するべきか。どちらを選んだとてリスクを背負い込むことになる。前者を選べば、店側は自身の非を責められたことになり改善を行うことになるが、ここは飲み屋である。僕が喚いたとて、後に、あいつマジでうるさかったな笑うわ、みたいな、休憩室の話のネタになり消化されるだけの可能性が高い。しかし、後者を選べば店側はこの態度が正解なのだなと、餃子を30分以上出さない接客を貫き通すことになり、僕が店を出た後でも何故か餃子だけが出てくるのが遅い店として汚名を被ることになるだろう。
 どっちが正解なのだろうか。言うべきか言わざるべきか。お通しだけの肴で、二杯目のビールが終わろうとしているこの時間に答えは出た。よし、言おう。この状態は異常だ、言わないよりも言ってスッキリしたほうが良い。幸いにも今は飲酒をして気が少し大きくなっている状態、そのお陰で喚くハードルも低くなっているはずあ、餃子きたわ。食っちゃいましょう。
 餃子がやってきた。待望の餃子だ。一皿に三個こじんまりと並んでいる。うあー、かいらしなぁ。三つ並んで団子ってか。少なっ。とは思わずに一つ口に運んでみる。冷めていた。常温以下の冷たさだった。しかし、それ以上に許せない事があった。
 いい加減、我慢の限界がきていた。僕は思い切りグラスを床に叩きつけ、勢いよく席を立ち店員に向かった。一言だけ「これ、小籠包じゃないですか」と絶叫した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?