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夜のサンドイッチ、布団の秘密基地
一人暮らしをするようになってから、夜ごはんにサンドイッチを食べることがたまにある。そんなとき、妙にわくわくするのはなぜだろう。
私は幼いころからサンドイッチが好きだ。覚えているのは小学2年生だかのころ、親から「あなたはサンドイッチが好きだよね」と言われたこと。そのときは、自分はパン屋さんでよくサンドイッチを選ぶけど、これは好きだからなのか、と思った覚えがある。それからは「私はサンドイッチが好きだ」という自覚を持って、パン屋さんでサンドイッチを選ぶようになった。
実家では、サンドイッチは専ら朝ごはんとして、土曜日も仕事に出かける母親がまだ眠っている私たちのために作りおいてくれていた。時間が経ってしなしなになった食パンに、マヨネーズとレタスとハムなんかが挟まれていて、それがすごく嬉しかった。私は、あとで食べる私のことを思って他人が作ってくれる料理すべてを、昔も今も愛する人間だが、サンドイッチをなかでも飛びきり愛している。遠足のお弁当がサンドイッチだと飛び跳ね、ピクニックのために母がサンドイッチを作っているのを見つけるとうきうきしながらそれを眺めていた。パンのうえに具を置いていく母の手と、詰みあがっていくサンドイッチを眺めていた。
これが子どものころのサンドイッチの記憶。さて、大人になった、と言っていいか分からないが、一人暮らしをできる程度には成長した私にとってのサンドイッチ。相変わらず、特別な食べ物のままである。
半年に一度ほど、どうしてもレタスサンドを食べたい、と思うことがある。そんなときはもう駄目で、どんなに疲れていてもレタスサンドを作らなければ気が済まない。買ったレタスサンドでは駄目で、何が何でも作るし、レタスがなければ這ってでもスーパーに行く。というか、レタスは常備していないので100%買いに行く。そんな日が、半年に一度ほどある。自分の強烈な、発作ともいうべき欲望を満たしているとき、サンドイッチとはなんと罪深き、魅力的な食べ物なんだろうと思ったりする。
喫茶店のモーニングメニューなんかに、トーストとベーコンエッグとサラダが載っているとき、ふとこれはサンドイッチと同じ材料だな、と思ったりする。わざわざ挟んで食べやすくカットするという手間をかけられたサンドイッチの、そのこぢんまりとした感じや断面の鮮やかさを思い浮かべ、その愛らしさにどきどきしたりもする。
サンドイッチは、朝に食べても昼に食べても素晴らしいのだが、夜に食べるのは格別である。なんだか、少し特別で、少し悪いことをしているような気持ちがして、それでより一層美味しく感じるのだ。みんなが明るい時間に食べているものを、私はこっそり夜に食べている!という、子どもじみたわくわく感がある。それは、子どものころ、きょうだいと一緒に布団をかぶって中でこそこそ話をする、秘密基地遊びをしたころのわくわくに似ている。
布団の秘密基地のなかでは、世界に私ときょうだいしかいないことになっていて、大人は入ってこれない。入ろうとしたときにはその世界は消滅するからである。布団を剝がされたら、それまでそこにあった世界はなかったことになる。暗闇では顔は見えないから、相手と私のささやき声や匂いだけで世界は構成されている。そこには、大人から隠れているという小さな罪悪感と、特別感のようなものがあった。
実家では夜にパンを食べることなんて一度もなかったので、それも特別感を感じる一因かもしれない。自分で食べるものを選べる生活をしている、”大人になった”という感覚。育ってみれば、夜にサンドイッチを食べる機会など当然あるし、そもそもサンドイッチ自体、特別というより気軽な食べ物のはずである。夜にサンドイッチを食べることを特別と感じていること自体、私の感覚が子どものまま、ということなのだろう。
夜にサンドイッチを食べるのも、布団のなかでこそこそ話をするのも、「世界に私(たち)だけ」という特別感がある。干渉してくるものや、縛ってくるものがない、解き放たれた感覚を味わうために、サンドイッチを食べるのかもしれない。
今後も(当面の間は)サンドイッチは私にとっては特別な食べ物なのだろうし、そうでなくても好きな食べ物であり続けるのだろう。
久々にちゃんと写真撮ったら神々しくなった、今日食べたクラブハウスサンド(レタス、トマト、ベーコン、アボカド、コンビーフ、キャベツ、目玉焼き、きゅうり)。しなしなになってもおいしかった。
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