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暴力は人類にとって必然なのか?「暴力批判論」 ヴァルター・ベンヤミン  ~3~ <ことばの森を逍遥する>

さて考察はいよいよ、法と暴力の関係、目的と手段の関係というところから、暴力とはそもそも何か?人類にとって暴力の普遍的な意味とはなにか?というほうへ問題がシフトしていくようにみえます。

『つまり暴力が、運命の冠をかぶった暴力が、法の根源だとすれば、暴力が法秩序のなかに現出するときの最高の形態である生死を左右する暴力となって、法の根源が代表的に実体化され、恐るべきすがたをそこに顕示していることは、想像するにかたくない。』

いわゆる実力行使としての暴力には、さまざまな形態があって、たんに他者を押しのけたり、モノを奪ったりする場合も多いでしょうが、究極の暴力形態は、やはり他者の命を奪う暴力です。命を奪うということは、つまり“どうやっても取り返しがつかない”ということを意味します。謝罪とか補償とか、どんな手段をもってしても、償うことが不可能だということです。死刑に対する根源的な批判は、刑罰の残酷さというようなことではなく、そもそも暴力に支えられた法への根源的疑義から発すると考えるべきでしょう。法と暴力はセットであり、その正義に絶対性を認めることはできませんから、そうであるならば、つまり法は不正義をなす可能性があるわけですから、取り返しのつかない刑罰を科すことは避けるべきだということです。もちろんこのことは、逆からいえば、だから、生命を左右するような暴力的脅迫によってこそ、はじめて法の秩序(権力)が維持されるということでもあります。法と暴力は、生殺与奪権によって結びついているということです。

『自然法や実定法が見てとる諸暴力の全領域のなかには、あらゆる法的暴力のもつ前記の重大な問題性をまぬかれているような暴力は、ひとつとして見あたらない。にもかかわらず、いっさいの暴力を完全に、かつ原理的に排除しては、人間的課題のなんらかの解決を、まして、従来の世界史上のあらゆる存在状況の呪縛圏からの解放を貫徹することは、またどうにも想像することができないのだから、すべての法理論が注目しているのとは別種の暴力についての問いが、どうしても湧きおこってくる。』

繰り返し指摘されているように、法を措定し維持する暴力には根源的な問題があるわけですが、しかしだからといってあらゆる暴力を否定してしまっていいのかと、ここでベンヤミンはあえて問います。人類の歴史は、良きにつけ悪しきにつけ、暴力を契機として動いてきたという事実は否定できないのですから、肯定すべき必要な暴力というものを想定しないわけにはいかないのではないかというのです。

『直接的暴力の神話的宣言は、より純粋な領域をひらくどころか、もっと深いところでは明らかにすべての法的暴力と同じものであり、法的暴力のもつ漠とした問題性を、その歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として、明確にする。したがって、これを滅ぼすことが課題となる。まさにこの課題こそ、究極において、神話的暴力の停止を命じうる純粋な直接的暴力についての問いを、もういちど提起するものだ。いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。』

法を措定し維持する暴力を「神話的」暴力と呼んで、これを破壊し停止し解放する暴力を「神的」暴力と呼ぶ、ベンヤミンはそのように主張しています。そして、「神話的」暴力と「神的」暴力という対概念を使って論証を試みようとするのです。「神話的」暴力というのは、秩序や権力とセットになって「抑圧する暴力」であり、一方、「神的」暴力というのは、その秩序や権力を破壊して「解放する暴力」だというようにいっています。

『前者(神話的暴力)が脅迫的なら、後者(神的暴力)は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも救命的である。』

『神話的暴力はすべての生命にたいする、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受けいれる。』

しかし、いったい、血の匂いのしない暴力とは、どういうものを指しているのか?そんな暴力が存在するのか?暴力は、暴力でしかない、そう考えるべきではないのか?ここは、この論考の肝になるテーマであり、同時にいちばん疑問を感じるところでもあるといえます。神的暴力というのは、法や秩序を守ると称する権力によって行使される圧倒的な暴力に対し、これに純粋に対抗する無垢な暴力だという意味にうけとれますが、もしそういう暴力がありうるとしても、それは奇蹟的・瞬間的にしか存在しえないのではないか、そういう疑問をもつことが避けられないと思います。

また、もしそういう暴力がありうるとして、その存在を承認してしまうとすると、けっきょくのところ暴力のエスカレートには歯止めがなくなってしまうのではないか?取り返しのつかない暴力=殺戮に至ってしまうのではないか?こういう疑問を避けられないように思います。これについて、ベンヤミンはこんなふうに答えます。

『この反論は認められない。なぜなら、「殺してもいいのか?」という問いにたいしては、確たる答えがあるからだ・・・「殺してはならない」という戒律(Gebot)として。』

「殺すな」という戒律によって殺戮が避けられるというのは、ちょっと心もとない返答だというほかありません。ここで暴力そのものを否定しきれい理由として、けっきょくベンヤミンはマルクス主義者なのだという事情を考慮しないわけにはいきません。いわゆる革命の暴力をいっさい否定してしまうとすると、マルクス主義が想定する「革命」は宙に浮いてしまうほかない、そういう事情があるからだと思えます。これは、ベンヤミンだけの問題というわけではなく、この当時の反体制的知識人の多くが、マルクス主義的な革命の理論に多かれ少なかれ影響されていたからだと思えます。

『革命が抑圧者を殺すことを引き合いに出した極端な例では、つぎのようなものだ。「殺さないかぎり、正義の世界はけっして築かれぬ・・・と、知的なテロリストは考える・・・だがわれわれは公言する、存在の幸福や正義よりも存在自体のほうが、ずっと高くにあるのだ、と。」この最後の命題が虚偽であるばかりか、下劣であることは確かだが、同時にそれが、戒律の根拠はもはや殺される者の主体のなかにではなく、神および行為者自身の主体のなかにもとめられねばならぬ、ということを示唆することも確かである。』

論旨を読み取るのがやや難しいですが、「存在を抑圧から救うためには抑圧者を殺すことも必要だ」と主張するテロリストに対して、ヒューマニストは「殺してはならぬ、なぜなら正義よりも存在そのものが高次にあるからだ」というのです。このヒューマニストの主張は虚偽であり下劣だと指摘しています。もし正義よりも存在のほうが高次なのだとするならば、どんな非道な存在も存在であることによって許されてしまいます。それでは正義は永遠に実現しないだろう、そう言っているようにみえます。

また、殺人の禁止は、殺される側の問題(存在・生命)として考えるのではなく、殺す側の問題(神・正義・倫理)として考えなければならないといっています。だれでも生きている者は、他者によって殺されたいと望まないわけで、殺される側から考えるなら、暴力的殺戮は生きる権利を剥奪される理不尽な行為です。しかし、殺される側の理不尽や無念、これが殺人禁止の戒律の根拠だとしてしまうと、殺す側の行為を本質的な意味で問うことから問題が逸れてしまうだろうということでしょう。たしかに現在のメディアの報道をみていても、戦争や犯罪によって殺人が行われた場合に、殺された側の視点から悲惨さや過酷さや理不尽さが語られるのが常です。殺す側の視点からこれを語るのは、とても困難だと思います。そもそも殺す側からの視点で、殺人を原理的に否定することはできないかもしれません。しかし困難だからこそ、殺す側の視点で考えなければ、本質は見えないだろうというふうに考えることもできます。

『人間というものは、人間のたんなる生命とけっして一致するものではないし、人間のなかのたんなる生命のみならず、人間の状態と特性とをもった何か別のものとも、さらには、とりかえのきかない肉体をもった人格とさえも、一致するものではない。人間がじつにとうといものだとしても(あるいは、地上の生と死と死後の生とをつらぬいて人間のなかに存在する生命が、といってもよいが)、それにしても人間の状態は、また人間の肉体的生命と、本質的にどんな違いがあるのか?それに、たとえ動植物がとうといとしても、たんなる生命ゆえにとうといとも、生命においてとうといとも、いえはしまい。生命のトウトサというドグマの起源を探究することは、むだではなかろう。たぶん、いや間違いなく、このドグマの日づけは新しい。』

「生命の尊さ」というテーゼは、おそらく近代ヒューマニズム思想とともに現れたもので、そのドグマの日づけは新しく、人間にとって普遍的なものではないから、これについてキチンと考えてみるべきだと言っています。動植物の生命についても、それが尊いという感覚はあるでしょうけれども、いくらそうであるからといって、まさか動植物を殺して喰うことをヤメることはありえないわけです。これと人間の生命を同一視することはできませんが、そうはいうものの、そのほか一切の条件を度外視して生命が最上位の価値だという倫理がほんとうかどうかは考えるべきところだということです。

ベンヤミンは、このあたりについては明快な論述を避けているようにもみえますけれども、わたしの理解としては、つぎのようになるかと思います。

「殺すなかれ」という戒律が発生したのはいつごろか?モーセの十戒には「殺すな」と書いてありますが、旧約聖書を見る限り、ヤハウェを信仰しない人間は、むしろ殺されて当然だと見なされています。絶対的に殺人を忌避する思想は、イエスとともに登場します。ただし、これ以降もキリスト教徒が殺人をしないわけではなく(むしろ積極的にすることも多く)、教義と行動とは別だと見なされています。

イエスの教えには、近代ヒューマニズムの萌芽があるように思いますけれども、しかし「殺すなかれ」はやはり神の命令であって、生命の尊さというような倫理が述べられているわけではありません。

「殺すなかれ」という戒律は、人類にとってそれなりに古いものだろうとは思いますが、それでも人類発生以来の普遍的な命題だとは、さすがに言えないと思います。戦争のようなものだけでなく、生贄、人身供養、処刑・・・さまざまな形で人間の生命を奪うようなことが人類史にはつきまとっています。

たんなる生命は、なにものにも替えがたいほど尊いのだろうか?もし人類全体の幸福というものと比較できるとするならば、個々の生命がそれほど重いといえるだろうか?マルクスがいう類的存在という言葉には、そういうことを考えさせる含みがあると解釈できるかもしれません。

こうなってしまうと、また話が振り出しへ戻ってしまうようですが、けっきょく人類全体をほんとうに幸福にするような目的であれば暴力(殺戮)は許容されるのか?という問いが頭をもたげます。いちばんはじめに問題にした、目的さえ正しければ、どんな手段も正当化されるのかという問いとリンクします。歴史の教訓によれば、革命の暴力は敗北すればテロリズムであり、勝利したことによってはじめて英雄となるのが鉄則です。それは結果論でしかなく、正しさをあらかじめ確定することはできません。正しいから勝ったのではなく、勝ったから正しいのです。けっきょくそれは暴力による決着ということになってしまいます。いくら神話的暴力と神的暴力を区別しようとしても、神的暴力は勝利を収めた瞬間から神話的暴力へ転化することが必然ではないのかという疑問は消えないのです。ベンヤミンが神的暴力と呼んでいるものは、もしそれが現れることがあるとしても、現れたことによってすぐに別のものに転化してしまうような、いわば幻のようなものでしかないと考えるべきなのではないでしょうか。

『このことは、新たな暴力か、あるいはさきに抑圧された暴力かが、従来の法措定の暴力にうちかち、新たな法を新たな没落にむかって基礎づけるときまで、継続する。神話的な法形態にしばられたこの循環を打破するときにこそ、いいかえれば、互いに依拠しあっている法と権力を、つまり究極的には国家暴力を廃止するときにこそ、新しい歴史時代が創出されるのだ。』

まさにこのあたりは、マルクス主義者の真骨頂を発揮しているところでしょう。真のプロレタリア革命が成就すれば、国家権力は破棄されるはずだという理想主義が信奉されています。しかし、それはどうやって可能なのか?については、論究されることはありません。残念ながらベンヤミンはその実態を見る前に他界していますが、かつて共産主義を標榜したソ連や中国が、国家権力を廃棄するどころか、資本主義国以上に強権的な中央集権国家を築いたことは歴史の事実です。もちろんマルクスが考えたプロレタリア革命と、ソ連や中国の革命とがまったく別物であったことも歴史の事実です。とはいえ、常にワンセットである権力・秩序・暴力、これらをどのようにすれば解体できるのかという見通しは、いまのところまったくの未知であり、遠い彼方に霞んでいるとしかいいようがありません。

『なぜなら、それとしてはっきり認められる暴力は、比喩を絶する作用力として現れるばあいを除けば、神的ならぬ神話的暴力だけなのだから。暴力のもつ減罪的な力は、人間の眼には隠されている。』

けっきょく人間の眼に見えるのは、いまは神話的暴力だけなのだということでしょう。では、純粋な神的暴力とは、どんなものなのか?それを予想したり特定したりすることはできないし、またそうする必要もないとベンヤミンはいっています。ただ、神話的暴力の向こう側に神的暴力、そういうものが“ありうる”ことだけを認めよ!そういっているようにみえます。理想の社会の姿など、それがやってくるまでだれにも分からないというマルクスのことばと通じます。真実は、いまだ人間の眼には隠されてわからないけれど、だからといって真実が存在すること(いずれ明らかになること)を否定してしまうのは退嬰的なだけだというのです。

最後は、神的暴力は、手段なのではなく、摂理の暴力なのだと締めくくっています。手段としての暴力、つまり、ある社会状態を実現するための手段として考えられる暴力は、けっきょく勝者としてその社会状態を実現してしまえば、権力としての神話的暴力とならざるをえないわけです。人類は有史以来、神話的暴力が入れ代わり立ち代わり民衆を支配することで成り立ってきたとみなしてもいいでしょう。この権力としての暴力は否定すべきだけれども、だからといって摂理の暴力まで否定してしまうと、革命は永遠に不可能になるというのがベンヤミンの主意なのでしょう。神話的暴力の連鎖を断ち切るためには、究極的には国家を廃棄するしかなく、そのためには神的暴力の可能性があるだろうといっているわけです。

しかし、ベンヤミンの時代からすでに百年経ちましたが、いまだに国家を廃棄するような見通しなどまったくないわけです。いまのところ暴力は神話的にしか存在しえないと考えるしかありません。摂理としての神的暴力は、もしそれがあるのだとしても、わたしたちの眼には隠されているのですから、それは起こり得る可能性、しかもずいぶん狭隘な可能性としてしか存在しないといえます。見えないことを理由に否定することはできない、というのは正しいのかもしれません。けれども、もし国家を解体するような方途がありうるとするのなら、それは暴力によってではなく、非暴力(ことば)によって成し遂げられなければ、持続可能性をもたないのではないか、そう考えることのほうが理に適っているような気がします。

※『 』内は、「暴力批判論」ヴァルター・ベンヤミン 高原宏平/野村修 編集解説 晶文社 よりの引用。



東京都世田谷区砧 1985年ころ


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