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論理的でも合理的でもないのだが。

「論理的ですね。」というフィードバックをもらうことが結構ある。そして、論理的な部分、合理的な部分を評価されて仕事を依頼してもらうこともある。

だが、最近の僕は論理的でも合理的でもない人間だと感じることが増えた。

なぜかと言われればそれは知らん。

だけど、明らかに論理的・合理的な人間では取らないような行動をとっている。

大手企業に就職できたのにわずか3年で独立してしまったのもそう。何の勝算もなく勢いだけで独立した。

詐欺・軟禁にあったのもそう。普通に考えたらヤバいおじさんにあっけなく騙された。

自己投資基準もそう。だいたい仕事の成果に直結しなさそうなものばかりに投資している。

公開婚活もそう。明らかにお金にならないのに面白そうだからって理由だけで数ヶ月間、自分のリソースをフルベットして取り組んだ。

僕自身の結婚もそうかもしれない。それっぽい理由はあるのだが「そうなる流れだったから。」という“理由にならない理由“が最大のきっかけである。(追記:この文章を見た妻に盛大に怒られました。「そうなる流れ」というのは僕の中で最大限に運命的という意味だったのだが伝わらず残念。)

つくづく、論理性・合理性のかけらもない人間だと思う。そんな僕が論理的・合理的と言われる理由を少しだけ考えてみることにした。

①構造的に物事を捉えるのが得意

学生時代からの積み上げかもしれないが、物理系を専攻していたこともあり、物事を構造的に見る習慣がある。それによって、物事や人の心理をなんとなく構造的にみている感覚がある。そんな僕の視点で見たものを見た通りに伝えるだけで、”論理的な人”と評価されるのだ。

僕が得意なのは構造であって論理ではない。そして、その構造を合理的に活用することもほぼない。

②点と点をつなげてそれっぽく喋るのが得意

自分が話している動画を後から見て、「何言ってんだこいつ?」と思うことがまあまあある。

その場では目の前の人たちが納得感を持っていたり、腑に落ちた顔をしているのだが、冷静になってよーーーく観察していると、意外と筋が通ってないことが多い。

ただ、スラスラ喋れたり、違和感なさそうな雰囲気で話の流れを作ることができるので、話の辻褄が合ってなくてもしっかりやり通せるのだ。これはおそらく僕の才能である。

多分、理屈っぽく喋るのが得意なだけ

自分で書いておいてとても残念だと感じているのだが、理屈っぽく喋るのが得意だから、合理的・論理的に見えるのではないかという仮説が浮かび上がってきた。

客観性があるときは多少の合理性・論理性はあるが、自分のことになればなるほど、合理性・論理性が失われる。

それをなんとなくの感覚で捉える力とそれっぽく伝える力で乗り切って生きているのが今の自分なんだと思う。(本当に乗り切れているのかは謎な部分がある。)

こうやって書くことでまた一つ自分の特性を受け入れられた気がするので、合理性や論理性は、今後一切自分のウリにせずに活動していこうと思います。

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