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地図を作った伊能忠敬は江戸期のスゴ腕社長!?

(本文章は、株式会社宣伝会議主催の編集・ライター養成講座45期で取り組んだ課題『過去の偉人を評論する文章(エッセイ)』を残しておくために、掲載しました。気軽にお読みください(^^)/)

初めて日本の実測地図『大日本沿海輿地(よち)全図』を作製した中心人物・伊能忠敬。約17年にわたり、日本全国を歩きまわって測量をおこなった功績は、今なお教科書に載っている歴史上の偉人だ。

56歳で本格的に測量を始めた忠敬だが、実は地図を作る前の実業家としても優れていた。数々の成功を収めた江戸期のスゴ腕社長・伊能忠敬とは?

はじめに

「日本の地形を正確に表すことが、異国から身を守る一歩となる」と考え、日本全国を歩きまわり、測量をおこなった伊能忠敬。歴史に名を残す偉業を成し遂げた忠敬には、あまり知られていない顔がもう一つある。それが若くして成功した実業家であり、スゴ腕社長の一面だ。

多角化経営で事業を立て直し

伊能忠敬は、1745年上総国小関村(現・千葉県九十九里町小関)で生まれ、幼少期は家庭の影響で親戚や知り合いの家を転々とする。決して順風満帆ではなかったが、若くして土地改良工事の現場監督を務めた働きぶりを伊能家に認められ、婿入り。17歳で当主となる。

当時の伊能家は、下総国佐原村(現・千葉県香取市佐原)で酒造業を営む有力な商人だったが、しばらく後継者が見つからず、ライバルの永沢家に水をあけられていた。数字に強かった忠敬は、事業の見直しを図り倹約を徹底しつつ、地域の新たな雇用に注力する。本業の酒造業だけでなく、米や穀物の取引、店賃貸といった不動産業に参入。江戸では薪炭問屋や金貸業も営んでおり、今でいう多角化経営でつぎつぎに事業を拡大していく。

”投資”のセンスを発揮

さらに忠敬は、投資センスにも優れていた。浅間山の噴火以降、佐原村では毎年不作が続き、米の値上がりを見越して、関西で大量に買い込む。翌年の米相場は予想に反して下落するも損切りをせず、じっと堪えた。

すると次の年、凶作に見舞われると、飢饉に苦しむ佐原の人々に米を施したうえで余った米を江戸で売り払い、多額の利益を得た。こうした忠敬の商才により、伊能家は飛躍的に成長し、1774年の約351両(現在の通貨価値で約5000万円)だった利益は、忠敬が隠居する1794年には約1264両(同約1億9000万円)になり、約20年間で3.6倍も伸ばすことができた。資産については正確な数字は明らかになっていないが、3万両くらい(同約30~35億円)だったと答えた記録が残っている。

地域政治に貢献

一方で村の名主も継ぎ、地域の政治にも人力を尽くす。祭礼に関する村の争議を仲裁したり、天明の大飢饉では村民のために身銭を切ったりと、地域の人々にも愛された忠敬。本人をはじめ社員も徹底して地域の人々の困りごとに積極的に手を貸すことで、信頼という商売の基盤を築き上げた。

まさに伊能忠敬は、江戸期のスゴ腕社長だったのだ。

実業家として得た求心力は、その後の日本地図作製にも大いに役立った。忠敬は志半ばで没するが、彼の意思を継いだ人々によって没後3年、『大日本沿海輿地(よち)全図』が完成する。若くして商才を発揮し、人々をまとめる社長経験があったからこそ成し遂げた偉業であったといえる。

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