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訪問作業療法士が見た「死生観」の多様性

はじめに

人は生まれれば、必ずいつかは死ぬ運命にあります。そしてその死生観は、個々の経験や価値観によって多様性を持っています。

死生観とは、生きることと死ぬことに対する考え方、または判断や行動の基盤となる生死に関する考えのことです。

私が訪問看護ステーション所属の作業療法士としてさまざまな人たちと携わる中で、家族や患者たちとの触れ合いから得た死生観の深まりを、今回は祖母の体験を交えながら綴っていきたいと思います。

死生観とおばあちゃんっ子の葛藤

祖母は85歳でリウマチを発症しました。長年長男家族と二世帯で同居しており、私も内孫として結婚するまで一緒に過ごしていました。そして結婚後も近所に住んで行き来し、祖母には何かとお世話になっています。リウマチ発症後、免疫抑制剤を使用して症状のコントロールし、若い頃と同じようにとはいかないものの自立した生活を送っていました。しかし、90歳になった年(昨年)、免疫抑制剤の効き過ぎにより脊髄に細菌が入り込み、入院を余儀なくされました。免疫抑制剤の減量により細菌感染からは回復。しかしリウマチの症状である痛みは悪化。鎮痛剤によるコントロールは体に負荷がかかるのではないかと躊躇う気持ちもあり、ベッドに寝て過ごすことも多くなってきました。

私は自他共に認めるおばあちゃんっ子です。

長らく「おばあちゃんに長生きしてほしい」という願いが心の中にありました。
「おばあちゃんと別れることを想像しただけで涙が出る。」そんな風に思っていました。

しかし、祖母の痛みや制約を目の当たりにして、今は違った気持ちが芽生えています。

健康寿命が尽きた今、私は祖母に
「長生きよりも今を幸せに生きてほしい」
という思いを強く抱いています。

痛みに耐えながらただ生きることと、寿命を縮めることになったとしても今を快適に自分らしく生きること。
どちらが幸せなのか、考えさせられます。

医療従事者の立場から見た死生観の多様性

訪問看護ステーション所属の作業療法士として、私は日々患者たちと接しています。その中で見せられる死生観の多様性に触れ、深い感慨を覚えます。

90代男性は在宅酸素療法をしながらも、タバコを吸っています。彼にとって、それが生きる喜びであり、我慢するくらいなら死んだ方がマシという思いが背後にあることに驚かされます。難病を抱えながらも「生きがいの飲酒はやめない」と語る60代男性もいる。医療従事者として、体に害のある生活習慣を改めるよう助言する必要がありますが、それはそれでその人の人生だと思う私もいます。
また、ALSの60代女性は人工呼吸器の装着を選ばず、自らの意志で人生を終えることを選択しています。それぞれの選択には、彼らなりの生きがいや幸せが込められています。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気です。しかし、筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経(運動ニューロン)が主に障害をうけます。その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、筋肉がやせていきます。その一方で、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが普通です。

難病情報センター


一方で90代のお父さんが転倒するのが嫌だからと家族が屋外の歩行練習を拒むケースや内臓への影響を心配して睡眠薬の処方を拒否し、昼夜逆転の生活に苦しむ80代の女性もいます。長生きするためには確かにその方がいいかもしれない。しかし、その結果その人らしい生活ができない期間が伸びているのではないかと感じることもあります。

どの方も必死に生きているということには変わりありません。しかし、その生き方が真っ二つに分かれているのは、「死生観」の違いなのだと痛感します。

どう生きるのが幸せか。
健康でなくなってから考えるのではきっと遅くて、今のうちから「死生観」に向き合っておくことが重要だと感じます。

この多様性を知ることで、祖母の状況も含め、人生の選択肢を見つめ直す機会となるのではないでしょうか。

おわりに

今回、死生観について祖母への思いと医療従事者としての視点をまじえて書き綴りながら考えたことは、
やはり元気なときに周囲の大切な人と「死生観」について語り合い、悔いのない人生を歩んでいきたいということでした。

また医療従事者としては死生観の多様性を認め、それぞれの人生に伴走できるよう関わって行きたいと思います。

最後に死生観を考えるきっかけとなったVoicy配信を貼り付けて終わりにしようと思います。



死生観について私が関連があると思った放送を追加していきます。

それではまた。

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