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人口減少時代を、どう生きる? - 精神科医 高木俊介さんがビールを醸造する理由

2020年2月15日(土)、京都GROVING BASEに集ったのは、「やさしいふつうとこれからの働き方」というテーマに興味を持ち、スピーカー役を引き受けてくださった3人のソーシャルワーカーと、31名のオーディエンスのみなさまです。

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SOCIAL WORKERS LABのキックオフイベントとして開催したSOCIAL WORKERS TALKの3時間は、ソーシャルワークとは?ソーシャルワーカーとは?を問いあい、ソーシャルワーク/ソーシャルワーカーのあり方や役割を開き、広げていく時間になりました。

当日語られた貴重なお話、創発された言葉たちをお届けします。

> イントロダクション・高木俊介さん編 本編
> 小山龍介さん編                                        coming soon
> 大原悠介さん・クロストーク編                coming soon

イントロダクション | SOCIAL WORKERS LABが考えるソーシャルワークとソーシャルワーカー

SOCIAL WORKERS LAB  ソーシャルワーカーズラボ

SOCIAL WORKERS LAB  コーディネーター 高田亜希子
SOCIAL WORKERS LABは、よい社会をつくる仕事をしたいと願っている若い人たちのために何ができるのか、試行錯誤するなかで生まれた活動です。

私は、最近になって福祉の仕事に携わるようになりました。知れば知るほど、人と人との関係をつくって深めていくこの仕事に魅了されています。そして同時に思うのは、福祉を専門的に学んでいたりしない限りは、その魅力の実態に触れるきっかけがそう転がっていない世界なんじゃないかと。ひとたび知ってもらいさえすれば、私と同じように「よい社会をつくる仕事だから関わりたい」という人は、きっといるんじゃないかと思うんです。

このイベントを広く知ってもらいたいと思ったとき、まず考えたのは、誰もに関係がある社会課題ってなんなんだろう?ということでした。そのなかで出てきたのが、人口減少時代をどう生きていくかという問いだったんですね。私たちはすでに人口減少時代というこれまでの正解が通用しない世界を生きている。そうしたなかで、これからの生き方や働き方を探っている人に、目の前のひとりに関心をもつことから仕事をつくっていく「福祉」という職業選択肢があると知ってもらうきっかけになれたらと思っています。

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SOCIAL WORKERS LAB  プロジェクト・デザイナー 今津新之助
ぼくたちはFACE to FUKUKSHIという一般社団法人を母体にして、すでに福祉に興味関心を持っている大学生たちを、福祉業界につなげる活動をしてきました。それは今後もやり続けていくんですが、それだけでいいのかという問題意識があって。

福祉は私たちの生活そのものなのに、福祉を知らない人たちからすると「施設ですよね」などと距離を置かれてしまう。そうして自分がコミットする仕事としては捉えてもらうことができない。このままだと私たちの福祉はこれ以上良くなっていかない。もともとぼくも業界外の人間なんですが、福祉ってものすごい可能性ある面白い世界なんです。その魅力を「福祉」という言葉を使わずに表現して、これまで福祉と出会う機会がなかった人たちとの出会いをつくることができないかと考えました。

「ソーシャルワーカー」は福祉業界からすると、とても馴染みのある言葉です。でも、それ以外の人たちは案外知らない。だからソーシャルワーカーに対して、ソーシャルビジネスとかソーシャルアントレプレナーとかソーシャルイノベーターなどと近い文脈で「よい社会をつくる仕事」というイメージを持ってもらえるんじゃないかと。国語辞典にある「社会事業家」という意味に近いかもしれません。

ぼくたちからすると、目の前のひとりに関心をもち、人と人との結びつきを回復させ、社会をアップデートしようと試みている人たちはソーシャルワーカーです。そのようにソーシャルワーカーを福祉業界の職種を表す言葉から解放し、その根底にある「あり方」として広く提示していくことができればと思ったんです。

SOCIAL WORKERS LABでは、そうしたソーシャルワーカーやソーシャルワークという言葉を問い直し、再定義していくような取組みに挑戦していきたいと考えています。

今日はキックオフイベントということで、ソーシャルワーカーの「あり方」を体現されてるお三方にお話しいただくんですが、まずは精神科医でビール醸造会社の創業者でもいらっしゃる高木俊介さんから。高木さんが経営されている一乗寺ブリュワリーは、いろんなところで賞もとっておられます。なぜ精神科医がビール醸造をしているのか?というテーマでお話いただきたいと思います。

 「人生『なぜ始めたか?』なんてことはなくて、やっていくうちに、こうなっちゃったんです」

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高木さん
こんにちは。どう見ても私が一番年配で、最初に話せということなんですが、要するに年寄りの話は最初に聞き流しとけっていうことですね。

会場 (笑)

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高木さん(以下すべて)
だいたい先輩の言う通りやったってろくなことないですから。私がなぜビールの醸造をやっているのか、不思議やから話せっていうことですが、人生「なぜ始めたか」なんてことはないと思います。やっているうちにこうなっちゃったんです。「私はこれをしたい」と言ったことをそのままやれて死んでいく人生なんてないでしょ。その都度、面白そうなことをやっていったり、自分や世の中にとって今の切実な問題は何だろうかっていうことを選んでいったら、何か知らないけど今の私みたいに訳のわからないことになっちゃうわけですよ。それでいいんです。

で、一番最初は私がなぜ精神科医になったのか、ですね。私が精神科医になった1980年代の初め頃っていうのは革命というやつが生きてまして、京都大学の精神科では教授を追い出して自治をやって自由だったんですね。私、大学時代に何を間違えたか、人口減少時代を予想したわけではないんですが、子供がいました。「子育てをするには精神科が一番いい。なにせ暇だぞ」と悪い先輩に言われて、子育てのために精神科医になりました。精神科では大学病院なのに70人くらい、戦前から入院しているような患者さんがいるわけですよ。そういう人たちと毎日のんびりすごすことができたんです、昔は。こんないいところないわ。子育てできるし、勉強しなくていい場所って思ってた。ところが後で知ったんですが、精神科って実は京大の一番端っこの鴨川のほとりの広い敷地の中にあるんですね。隣に呼吸器科と皮膚科がある。どういうことかというと、結核とハンセン病と精神病。その3つは汚れを流さなければいけないから鴨川のそばにあった。鴨川って今デートスポットですけど、昔は首切ってたところだからね。そういうところにあったんです。

「精神病は怖いから隔離しようという文化をなんとかしなきゃって目覚めちゃったんです。」

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私が精神科医になったときに、宇都宮病院事件が起こりました。聞いたことありますか。福祉関係の人は知っといてくださいね。宇都宮にある700ベッドくらいある精神病院で、院長が回診で患者さんをゴルフクラブで殴って歩いてたり、ついには、隔離室の中で患者さんが殺されちゃったんです。そういう事件があって明るみに出たけれど、実は日本の精神病院のほとんどがそういう状況だった。ちなみに、今でも日本では精神科のベッドが一番多いんですよ。みなさんあまり知らないんですけど、病院のベッドの5つに1つは精神科。どんなところにあるかといえば、山の奥にある。今でも鉄格子があったりする。どうしてそうなったかというと、高度経済成長の陰で、精神疾患を患う人がものすごく多いんです。100人に1人が統合失調症です。みなさんも辿っていけばご親族などどこかにいるんじゃないかと思うんですが、鬱病もすごく多いですね。そういう人たちが地域で暮らしてたら高度経済成長ができない。労働力を介護にとられるからです。だから、精神障がい者は山の中に収容した。山の中に収容されて鉄格子のはまったところにいる人をみれば、そりゃ誰でも怖いと思う。そうして、精神病は怖いものだというイメージができあがった。だから今でも、精神病の人は地域で暮らしていくことが非常に難しい。日本人は、「精神病は怖いものだから」と隔離する文化をずっと作ってきてしまっている。それをなんとかしなきゃって、宇都宮病院事件で目覚めちゃったんですね。いろいろ見てきましたが、精神病院は大きな施設で人里離れてて密室状態。患者さんに対する暴力は今でも日常茶飯事。この前も、石郷岡病院っていうところで、保護室で患者さん殺しちゃってましたね。その時の映像が残ってるんですけど、オムツを変えながら患者さんにご飯食べさせたりとかね。今、最近でもですよ。当時、そういう組織の状態に、なんとかしなきゃと思っていた自分もどんどん巻き込まれていって、それが当たり前みたいな感じになっちゃった。

人間が施設を作ったのに、施設が人間を変えていく。それを壊さなきゃ」

今度、相模原障害者施設殺傷事件の公判がありますね。植松被告が裁判で喋っている内容を聞きました。植松さんは最初、障がい者がかわいそうな扱い受けてるのを見て「これじゃいけない」と思ったそうです。ところが同じ施設の人に、「君も働いていたらわかるよ」って言われてだんだんと変わっていったんです。人間が施設を作ったのに、施設が人間を変えていくんですね。それを壊さなきゃいけないと考えて、16年前にACT-アサーティブコミュニティトリートメント-を立ち上げました。地域で、医者だけじゃなく看護師やケースワーカー、精神保健福祉士、作業療法士や臨床心理士とか、いろんな専門家みんなで重度の精神障害者が住んでいるお家に訪問して、支えていく仕組みです。

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ここまでは熱血の話ですよね。でも結局はやっぱり自分も、施設はつくらなかったけど組織を作っちゃった。その組織がいろんなところで行き詰まりが出てきたんです。次は何をやればいいんだ、俺。一生懸命支えて、ようやく地域で重症の人が暮らせるようになったけれども、次に何やっていいかわかんない。考えて、働く場がいるじゃないかと行き着きました。そこですぐビール醸造に行けばかっこいいけれども、はじめは何をやっていいかさっぱりわかんない。で、ちょうどそんなことを考え始めたときが2010年だった。まだリーマンショック後のダメージが残っているときでした。不況で、どーんと非正規雇用が増えた。その余波はみなさん被ってると思うけれど、福祉もすごい貧しかったです。「障がい者も就労できる」みたいな流れは言うことはいいんだけど、身体障害でも知的障害でも、作業所に1日通って1,000円くらい、月に1万円ももらえない。熱心にやってる人には悪いんだけど、誰でも作れるようなクッキー作って、それを教会のバザーかなんかで売って、お情けの目で見られて。そういうことで生活を支えてたんですよね。それじゃいけないと。

「精神病の人が働く場所がいるから、金になるものを作りたいと思いました。」

なんとか金になるものを作りたいと思ったんです。たかが医者がね、そんなこと思うんですよ。医療ってやればやっただけ出来高制でお金が入ってくるから世の中なめちゃったんですね。やったら金はなんとかなるだろう、みたいな。で、最初に考えたのが、靴磨きだったんですよ。ちょうどその頃、東京では靴磨きが流行ってて、靴磨きの講習に行って靴磨きの道具をワンセット買ったらホテルのお客さん相手にできますって聞いた。それでいいじゃん、と。発達障害の人とか特に、靴磨きは得意だろうと。それで、うちのケースワーカーたちに「お金あげるから東京に行って靴磨き習ってこい」って言ったんですが、なかなか話が進まないんですよね。なんでだろう?と思っていたら、ある人が教えてくれました。「京都では靴磨きは被差別部落のものですから、それに福祉が手を出したらいけません」って。「えーっ」と思って。たった10年前ですよ。今は、靴磨きの本が書店に並んでますよね。俺、目指すの10年早かったと思います。

次に考えたのが、ドジョウです。ちょうど鰻の値段が高騰していたので、鰻がダメだから京都で初めてドジョウをやろうと思ってね。池まで作ったんですよ。ドジョウをどこから連れて来るかを知り合いの会社に教えてもらった。そこで「長野県に行ったら東京の浅草で食われてるドジョウのタネが売ってるからそれではじめようと思う」って言った。行ったらそこで怒られましてね。「君ら、ドジョウというのは貴重な河川封入魚なのに、君らが勝手に長野のドジョウを京都に運んで、誤って鴨川に逃げでもしたら、鴨川のドジョウの遺伝子が汚れる」と。「DNAが汚される」と言われまして、しょうがないからドジョウすくい部隊を結成しまして。鴨川でドジョウを獲ってきた池に入れたんです。でも、いかんせん数が少なすぎたし、育てているうちに鳥に食べられてしまいました。

「あとはビールしかないじゃん。絶対、上手くいくと思うでしょ?」

そんなことをしながら、地ビールに巡り会ったんですね。2010年頃、地ビール、クラフトビールはどん底だったんです。なぜどん底かっていうと1990年代に小規模のビール醸造が解禁されたんですが、その頃、日本全体でまだバブルの名残の開発が進んでいて、採算を考えずに大きな施設を作って流通を考えずにテーマパークみたいなところで地ビールやクラフトビールをつくってたんです。そりゃ全部潰れますよね。だってテーマパークって車で行くじゃん。いかに当時の日本の地域興しって何も考えてなかったってことがわかるでしょ?だから、俺がビール開発やってやろうと思ってね。どん底になっているからあとは上がるしかない。しかも、日本酒もブームが去った。焼酎も去った。ワインも去った。あとはビールしかないじゃん、と思ったわけですよ。絶対うまく行くと思うでしょ?ビールだったら、ラベル貼りとか瓶詰めとかいろんな工程ができるから、障害者雇用にも結びつくだろうと思って始めたんですね。免許とるのに2年くらいかかりましたけれども。始めてみてると、いろいろビールについてわかってくる。

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ビールって、世界で一番、銘柄が多いお酒なんです。世界中で作れているのはビールだけ。日本酒もワインも原料が作れているところでしか作れない。ビールは原料が乾き物で世界中で作れるから、みんな自分のところの特産品なんかを取り入れていきます。だからものすごく多様性のある商品なんです。 一方で、大手ビール会社のビールは、富国強兵の時代にドイツから持ち帰られたラガービール一択です。

なんてことが、勉強しているうちにわかってきました。これからの日本は富国強兵とは真逆で、どんどんどんどん定常社会になっていき、多様性を求める社会になるんだから、富国強兵ビールとは違うビールをつくったるぞ、とむくむくやる気が湧いて、ビールにのめり込んだんですね。そうしてできたのが、ビール醸造所「一乗寺ブリュワリー」です。しかし、いかんせん医者が商売しようってわけです。作ったんですけど売れないんですよ。どうやって売ったらいいかわかんない。店を開いても誰も客が来ない。そこから始まって、いろんな出会いがあって、このビールなら売ろうって言ってくれる人が現れて、どんどん大きくなりました。

「大きくなったあと、次はつながりができはじめ、ダイアローグ -対話- ができはじめました。」

このように、最初は障害者雇用という文脈で始めたんですけれども、今はまたちょっと違う方向にいっています。もちろん、障害者雇用もやっていこうと思っていますが、それだけじゃなくて京都のいろんな事業者と連携していっています。まずは、同じ福祉をやっている人たちが「ビールってそうやればできるんだ。自分たちもやってみよう」とつながってくれて自閉症の人が暮らす生活介護施設の「西陣麦酒」ができました。ここのビール、インターネットで買えます。とってもおいしいです。ゆずのビールとか、いろんな美味しいビールができています。

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京都で自分たちが前例をつくって免許が取りやすくなったので、ほかにもいろんな小さなビール工場ができ始めました。そういうところと集まって、京都産の地産地消ビールを作りました。亀岡でビール麦を作って、与謝野と亀岡でホップを作る。それを私たちがビールにする。これが亀岡でふるさと納税品に選ばれました。そこからさらに発展させて、今、農福連携ビールというのもやってます。近頃、農福連携という事業のやり方が、福祉の世界では注目されています。障害者の施設で作った麦やホップを、私たちがビールにして製品にして売ってるわけです。大企業は、小さくて麦のつぶが揃ってないようなのは使いません。我々のような、小さなところでやってる職人がそういう麦をうまいことビールにしてくれます。ビールの名前は「不揃いな麦たち」っていうんですね。毎年小ロットなんですけど、時々出て西陣麦酒の方から販売をしてます。そういうつながりがいっぱいできてきてですね、最初の目標とはだいぶ違うんだけども、いろんなところとのダイアローグ-対話-ができつつあります。

「これからの世の中は、相手と自分の喜びが折り重なる、重畳する幸福を目指していかないと」

そんな中で私は思います。これからの世の中は、まず、自分たちの作るものや行動が相手の喜びになる。ビールが美味しいとか、福祉で働くこともそう。相手の喜びになることが、自分の喜びになる。自分の喜びになるからまた頑張る。それを見てもらえる、というような、折り重なった喜びの世界というか。「重畳する幸福」を世の中全体で目指していかないとね。これからの社会で、ただ単に自分が偉くなること、自分が金を儲けること、そういうことでは、絶対に幸せになれないと思うんですね。ということで、ちょっと長かったかな。話を終わらせていただきます。

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コンセプトクリエイター/フォトグラファーの小山龍介さんのお話に続きます。

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