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Evidentiality について思うこと

みなさん、こんにちは。
Yamayoyamです。

世の中はこのところ、一難去らないうちにまた一難がやってきてしまった様相を呈していますね。みなさんも色々と思うところがあることと思います。が、この言語学マガジンではどんな時も、言語についてのよしなしごとを綴っていこうと決心いたしました。今回もいつも通り、言葉のあれこれについての記事です。

ストックホルム大学で博士論文を書いていたとき、シチリア出身の友人と知り合いました。実家(義実家だったかも)にオリーブ畑とぶどう畑があって、オリーブオイルとワインを作っていると聞いて驚いたのも良い思い出。自家製オリーブオイルの味見をさせてもらったり、イタリア料理は「とにかくチーズをたくさん入れること!」というアドバイスをもらったり、彼女とは美食な思い出がたくさんあります。

Evidentiality って

彼女はアメリカ大陸で話されている「アイマラ語」の「evidentiality(証拠性)」について博士論文を書いていました。最初「evidentiality」って何?と思ったのですが、話を聞くと「ああ、あれか、なるほど」と思ったのでした。

というのも、日本語は evidentiality のマーカー(標識)が豊富だから。日本語では、見てきたわけじゃないことを伝えるときに使う、独特の表現があります。助動詞「らしい」「そうだ」や「ようだ」、それから「~という」などがそれにあたります。口語だと「~のだって」と言ったりしますよね。

「マリアの実家にはオリーブ畑とぶどう畑があるらしい。」
「マリアの実家にはオリーブ畑とぶどう畑があるそうだ。」
「マリアの実家にはオリーブ畑とぶどう畑があるという。」
「マリアの実家にはオリーブ畑とぶどう畑があるんだって!」

自分がシチリアまで行ってマリア(仮名)の実家のオリーブ畑とぶどう畑を見てきたわけではなく、あくまでそうだと聞いたというのを伝えたいとき、こういう言い方ができます。

とはいうものの、母語話者としては、見てきたわけじゃないのに

「マリアの実家にはオリーブ畑とぶどう畑がある」

というのは、「まるで見てきたかのように言」ってるみたいで気が引けます。自分で見てきたわけじゃないときには、自然と「~らしい」「~のだって」などの表現を使ってるんじゃないかと思います。そうじゃないとなんか座りが悪い。これが、evidentiality をマークすることが文法に組み込まれている言語の母語話者の感覚じゃないかと思うんですけども。どうだろう。

ところで、英語を習ったときはあまりこういう表現の話は出てきませんでした。「I heard that ~(~と聞いた)」とか「it seems ~ (~のように見える)」「according to ~, ….」と言う選択肢はありました。でも、伝聞表現に特化したマーカーや動詞の特別な形があるわけではありませんでした。
日本語の「~らしい」「~ようだ」のような evidentiality のマーカーはないけれど、自分で見たわけじゃない場合の言い方が何らかの方法で用意されている、といった具合ですね。
こういうのは、言語が持ち合わせている表現能力によるものと言えます。

ところがリトアニア語やドイツ語の授業で、「自分が情報のソースではないことをハッキリさせて言いたいとき」の表現が文法として組み込まれているのを習い、図らずも evidentialityと再会したのでした。(!ただし、「自分が情報のソースでない」時にそれを標示するのは、両言語とも義務的ではないらしい。)

リトアニア語・ラトビア語の場合

東バルト語で、「見てきたわけじゃないよ」の表現は、「relative mode」となぜか呼ばれています。なんで evidentiality と呼ばないのかなあと密かに疑問。義務的ではないからかな?

文中の定動詞を分詞に置き換えると、「見てきたわけじゃない」感が醸せます。昔話で使われることが多いとよく言われるので、手元のリトアニア語の昔話(※1)を確認したら、使われていなかった・・・(汗)。文体によるようです。
仕方ないので作例してみようと思いたち、以下のような作文をしてリトアニア人の友人に確認してみました。

(直説法)Marijos tėvai turi alyvmedžių laukus ir vynuogynus.
(relative mode)→  (girdėjau kad) Marijos tėvai turį alyvmedžių laukus ir vynuogynus.

そしたら、「間違ってはなさそうだけど、もうこういう古くさい言い方はしない」という学習者泣かせなお返事が・・・。
気を取り直して言語学者っぽいことをコメントしてみますと、バルト語は分詞がとても発達しているのですが、この relative mode もその発達に一役買ったんじゃないかと密かに思っています。


ドイツ語の場合

ちゃんとドイツ語学を勉強したことがないので、果たしてこれがevidentialityと呼ばれているか微妙なんですけど、いわゆる「接続法一式」の用法を習ったとき、「evidentiality の概念に重なってるんじゃない?」と思ったのでした。

文中の定動詞を「接続法一式」という形の定動詞に置き換えると、「見てきたわけじゃない」とか「私の意見ではなくて、引用です」ということを表します。ただ、直説法が必ずしも「見てきたこと」を表すわけではないようですので、そのへんのコントラストのぼやけ具合が evidentiality とはっきり言えない所以なのかなと思います。

例:(Maria hat mir einmal gesagt:) Marias Eltern haben Olivenfelder und Weinberge.

この例だと定動詞が3人称複数形で、接続法一式と直説法の形が偶然にも同じなので不明瞭ですね。ということで、Marias Eltern → Marias Vater としてみましたよ。

(直説法)Marias Vater hat Olivenfelder und Weinberge.
(接続法一式)→ Marias Vater habe Olivenfelder und Weinberge.

接続法一式は新聞記事などでよく使われるようです。ただ、格式高い感じがする半面、古くさくなりつつあって、あまり使われなくなっていると、ドイツ語学校の先生が言っていました。ウチのゲルマン語学者にきいたところ、彼も同じことを言いました。言語ウォッチャーとしては寂しい。もし私にもっとドイツ語力があったら、無駄に使いまくって接続法一式を挽回させたい!けど、使う機会が確かにあまりないのが残念です。「Ich habe gehört / gelesen, dass….」て言うほうが簡単だし。

Evidentiality の意味

〽人生色々~♪な事情で私が親しむことになった言語の evidentiality をこうして見てきたわけですが、evidentiality をちゃんとマークする(少なくとも昔はもうちょっと律儀にマークしていた)のにはきっと社会的な意味もあったんだろうな、とコレを書きながら思い始めました。

自分で見たわけじゃないのにまるで見てきたように喋る人は、ビビッドに情景を描き出す表現力がありますが、一歩間違えるとホラ吹きになってしまいかねません。

その間違える「一歩」を踏み出しちゃうかどうかは、
「自分で見てきたわけじゃないんだよ」とちゃんと言えてるかどうか。Evidentiality マーカーを適切に使えているかどうか
にかかっていたんじゃないかな、と思ったのです。
そうじゃないと、自分ではその正否に責任が持てないようなことを、さも「この目でみてきたから本当!」かのように語るホラ吹きになってしまう。それじゃ、信用を失ってしまいそう。

だから、自分が責任を持てる情報と、そうでない情報をちゃんと区別できるかどうかって、信用を得るには大事なことだったのでしょうね。
人間社会で信用は大事。
そんなわけで、evidentiality を文法システムに組み込んでる(あるいは、組み込んでいた)言語があるのかな、と思いました。

このマガジンで言語学なホラを吹きがちな Yamayoyam、ちょっとヤバいかも・・・(汗)。
いや、ホラを吹いているというよりは、妄想を語ってるわけで・・・。
なんて言うと、その二つのどこが違うんだ!というツッコミが飛んできそう(汗)。
と、ドキドキしながら今回は終わりたいと思います。

Yamayoyam

※1 ご存知の方もいるかも。Eglė と草蛇の物語です。

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