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鎮魂歌としてのJ-POP

7.18TBS音楽の日におけるMISIAを見て

 先日TBS「音楽の日」をチラッとつけてみたら、ちょうどMISIAが東大寺で歌う時間だった。曲目は「逢いたくていま(2009)」「さよならも言わないままで(新曲)」「明日へ(2011)」。壮大なバラードを神聖で美しい東大寺の空間演出と共に感動的に届けられていた。

 これが、音楽家な自分からすると実に「気持ち悪い」時間に思えて仕方がなかったのだ。(注:しばしすいません、MISIAファンには嫌な表現が続くかもしれませんが、最後には納得していただけるかと思います)まずどれもが「死」と「災害」に直結した歌であること。特に番組の売りとされていた、本邦初公開「さよならも言わないままで」は曲を聞かなくても分かるように、新型コロナにて亡くなられた人へ捧げる歌であることが想像され、偶然にも九州南部の水害などもあったので、「ちょうどその災害で亡くなった人に対しても当てはまる曲」となっていた。そして最後に届けられたのが2011年の3.11東日本大震災後に発表された曲「明日へ」。災害の度にそういう曲を発表しては話題になっている、、、という点に気持ち悪さを感じてしまった。

 実際、曲調はシンプルで、ありがちで、かつ壮大である。言葉も予想通りの想定内の「いま逢いたい あなたに」「ありがとうも言えないままで」「独りじゃないから 明日へ」などなど、歌詞も決して彼女独自の表現方法ではない。歌い方も彼女が年を重ねるごとに強調するようになった(強調させざるを得なくなった?)、あの悲鳴のような発声の連発だ。そうやって音楽的に彼女を聴いた時に感じるのは「予定調和の塊」だな、と。俺の思った気持ち悪さは、「なんだこの悲劇ごっこは?」ということだった。

MISIAは真剣である

 でも同時に別なことも引っかかる。どう見ても彼女はこの予定調和な音楽に対して真剣だ。なんなら精鋭のバックバンドも真剣だ。本気で気持ちを込めて、多くの苦しむ人へ少しでも何かが届けられれば、希望となってくれれば、、、と思って歌っているし、演奏している(ように見える)。

 意地悪い見方も出来なくは、ない。独特な、自分独自な鎮魂の歌を歌っても今現在大衆には届きにくいことを彼女も周囲も自覚していて(自覚させられるような業界になっている)、わざとシンプルな表現に特化してやって見た方が売れた。当初の彼女のディーバ的な居場所とは違う居場所が出来た。ということで、あくまでビジネスとしてその役割に成りきっているのかも?という見方だ。(だとしてもそれは悪いことではない。スタッフや関係者の生活を支えると言う意味においても)

 実際俺が直接であれ間接であれ、関わる現場にはそうしたある種の諦観が常識になってしまっている側面はある。演者がどれだけ元々アッパーなものやソウルやジャズや色んなマニアックで深みのあることをやりたかったとしても、結局客が一番分かりやすく感動し、涙を流すのはバラードだ。演者も当初は嫌々やっていたとしても、アーティストとして生き続けて行くためだろう、気づけばそのバラードを中心にライブ構成を考えるようになっていたりするのだ。

 ところが、そんな分析的に見てしまう俺の印象とは裏腹に、周囲の音楽ファンだけじゃなく、周囲のミュージシャンからも今回のMISIAを絶賛する声が相次いで出てくる。この、壮大だけども予定調和でしかない音楽のあり方に、何故そこまで皆が感動するのだろう???あれからしばらく俺は悩んだ。馬鹿にするのは何か違う。今、日本において音楽の役割が変わってきているのかもしれない。すでに20世紀的なポピュラー音楽は終わっている2020年のいま、日本において音楽は一体どういう役割だというのか?

 <これまでの音楽〜これからの音楽については既に記してます、よかったら読んで見てください↓>

巫女さんによる鎮魂歌なのか

 しばらく考えてふと気づいた。ヒントは彼女の神々しい衣装と佇まいだ。もちろん背景の東大寺というのもあるが、そもそも彼女のヘアスタイルや衣装はずっとあのスタイルだ。そう、そこにふと
「MISIAは巫女さんみたいだな」
と思ったのだ。例えアフリカ由来のヘアスタイルであったとしても。いやむしろ露骨に尼僧のような格好じゃないからこそのグローバル時代の「現代の巫女」なんじゃないか?と。

 実際、彼女のサポートをしたり関わったり接したりしたことのある人で、彼女を悪く言う人は俺の知る限り皆無だし、あの佇まいに性別を超えた何かを感じてしまうのは俺だけじゃないだろう。そして常に「真剣である」。

 余談だが、彼女の親戚には医者が多くて、「みんな医者」だから「ミーシャ」と言う冗談のような本当の話もある。だとすれば彼女のことを音楽療法師と呼んでもいいのかもしれない。

 まぁそこまで行くと拡大解釈が過ぎるかもしれないし、彼女のファンはそこまでは思っていないだろうけれど、この「予定調和感」を持って「ありがとうございます!」と言う存在感自体は、まさに巫女さんである。祈祷師でも司祭でもいい。その様な、鎮魂の儀式を執り行う者として彼女を見たならば、実に腑に落ちるのだ。そもそも儀式とは予定調和じゃなくてはダメなのだから。

鎮魂歌としてのJ-POP

 現在、色んな過去の事件と報道の積み重ねもあって、本来宗教的生活を日常としていたはずの日本人が、一部の儀式以外は宗教的でありにくくなってしまっている。宗教由来の行為は初詣、節分、お彼岸、お盆、厄払い、七五三、成人式、収穫祭など色々残ってはいるけれど、苦しい時悲しい時に寄り添うお坊さん、神主さんと言う生活ではなくなってきている。特に都会生活をしている者はそうだろう。でも内田樹氏ほか色んな識者が言うまでもなく、色々災害があった際には鎮魂という儀式は日本人の心情的に必要なはずなのだ。

 そのような視点で、昨今の日本の音楽シーンを見直すと腑に落ちることが多いのに気づく人も多いだろう。何故同じような曲、何故同じような歌詞のものが溢れているのか?そして何故そのありがちな「感謝」「ありがとう」そして「希望」を、何百煎じか分からない方法論で歌う人が途絶えないのか。支持者がなぜ途絶えないのか。

 鎮魂歌としてのJ-POP。20世紀的な、独自の表現を追求する音楽ではなく、その都度その歌い手が気持ちを込めて、同じテーマの曲を再生産する理由はそこなのか?と。ロックバンドなりヒップホップなりアイドルなり、、、というちょっとした宗派?の違いがあったとしても同じテーマの楽曲が存在している理由はそこなのか?と。

 そのような視点でMISIAの東大寺のライブ映像を見直すと、目を細めていた自分が嘘のように、感謝の気持ちで見れてしまうのだ。そう、むしろ歌詞がわかりやすいのがいい。あの悲鳴のような倍音を出してくれるのが、「今気持ちを高めますよ!」と誘ってくれるようで、いい。日常聴きたい音楽ではないけれど、鎮魂が必要な折には彼女のような存在は必要だし、これから益々存在価値が高まってくるだろう。そしてその様な役割のアーティストや楽曲がこれからもどんどん出てくることになるだろう。

 最後にまた意地悪なことを言うと、鎮魂歌があまり必要とされない時代の方が本当は幸せなんだけれどね。

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