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「すっぽりと抜け落ちるもの」への嗅覚 寺尾紗穂

 事実上ジャーナリストと言っていいポテンシャルを持ちつつも表向き(?)シンガーソングライターである寺尾紗穂の書籍のレビューを記すのは若干恐れ多くはあるのだけれど、なるべく肩肘張らずに俺なりに記してみたいと思う。そう、記しておきたいと思ったから。

 彼女の書籍との出会いと感想文は3年前に記した。( 「一緒に散歩をしてみたい人だな、寺尾紗穂」 ) その後もネットショップ 限定ものを含めてちょくちょく読んではいたが、この二冊、特に『日本人が移民だったころ』はその壮大なスケールにやられたので、記しておきたいと思った次第。昨年の夏には購入していたんだけど、相変わらずの「つん読」体質なものでね、ここ最近のレビューだらけなのを見ても分かるだろうけれど、今やっと色々と一段落して、そこから広がった本がまた積まれたところ。そんな訳でこの本『日本人が移民だったころ』は買ってからは時間が経っているものの、読み始めたのは4月後半、すぐに読める読みたくなる流れの本でした。基本、最近読了した写真左側の方を軸にレビューさせてもらいます。


『日本人が移民だったころ』2023年初版 (最近読了)
『南洋と私』文庫本 2019年初版 (実は結構前に読了してます)
寺尾紗穂 著

 いやぁ改めて凄い人だな。凄いと言っても大谷翔平的な凄さとは違う、テレビ的でない凄さ。多分、身近にいる人や歴史好きや俺のようなタイプのニッチなアンテナを張っている人にしか伝わらないであろう凄さ。だって読んだ書籍がきっかけで「その後」を知りたいがために南の島まで旅に出ちゃう人だよ。この本ではコロナ禍中にパラグアイ、アルゼンチンとブラジルの間の国にまで行ってしまう人だよ。日本からしたら地球の反対側だよ。俺もそれなりな行動力と実践力はあると自負しているが、この方向の行動力は、ない、遥か及ばない。

 『南洋と私』は解説を重松清が記していて「すっぽりと抜け落ちるもの」を探し、拾い集める旅、と記されていたが、実に的確な表現に思う。俺的に付け加えさせてもらうならば「現代の宮本常一」。そのフットワークで「すっぽりと抜け落ちるもの」を拾っていこうとする佇まいはまさに同じ。大手メディア〜テレビ的というのは分かりやすいものを列記して消費を促すシステムがベースにある。改めて過去を振り返る番組などがあったとしても「遺跡発掘!」のようなベクトルか「戦争という過ち」という分かりやすいベールに包んで総括するものがほとんどで、なかなかそこに伏流する重層的な側面、政府批判に陥りそうな側面までは語られない傾向にある。そんな中、彼女がその鋭い嗅覚でキャッチするものは全くもって「テレビ的」ではない。言い換えるならば、「テレビ的」なメディアが見落としてきた歴史に反応するような嗅覚だから、ということだろう。

 この二冊はあの戦争、太平洋戦争にまつわるサイパン、パラオなどの南洋における戦争の当事者たち(『南洋と私』)、タイトル通り日本人が移民として色んな国に移民していた頃を知る人および当事者たち(『日本人が移民だったころ』)への直々のインタビューをまとめたノンフィクション。いずれも「**の人は親日的」などのテレビ的な定説に対する違和感に端を発し、自ら足を運んで当事者の言葉を聞き、ひとつの結論に導こうとするのではなく、多様な解釈がそれぞれにあることを浮き彫りにする。

 そんな彼女の佇まいは以前のblog記事にも引用したけどこのやり取りに集約されているように思う。

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■「いろんな人の声を聞けば聞くほど、どちらにも共感してしまって、ひとつのこれ、と言う主張を言えなくなってしまうんです。どうしたらいいんでしょう?」と言う質問に対しての答えが

「いろんな意見を知って自分の主張ができなくなってしまう、何が正しいかわからなくなってしまう、そう言う状態は必ずしも悪いことではなくて、白でも黒でもない新しい答えを出すために必要な通過点になるのではないでしょうか?」

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 そもそも『日本人が移民だったころ』ってタイトルからして太平洋戦争の陰を知るぐらいの高齢者以外はハテナ?な感じじゃなかろうか。俺も漠然とブラジルへの移民や、ペルーの大統領になったことがあるフジモリ氏が熊本をルーツとする移民であると言うこと、つまり南米にそこそこ日本人移民がいたことは知っていても、体感的には日本のどこにもあるフィリピンパブ、中国人街韓国人街、町によってはブラジル移民沖縄移民街があったりして(そこに飲みに行ったりもするので)、「日本に出稼ぎに来た移民が沢山いる、という「移民に来られる国、日本」という印象の方が強かった。昨今のどのコンビニエンスストアも外国人が店員をしていたりする訳だからその印象は更に強くなる。

 ところが実際は戦前1930年代の成長期(人口爆発)、戦後には引き続きの子沢山と大量の帰還日本人がいたことで1940,50年代を中心に多くの日本人が「ここではないどこか」を求めていろんな国に移民として旅立った人たちがいることを知るのは驚きだ。いずれも「このままだと農業をするにも土地がない」という子沢山時代であるが故の問題解消のために、日本政府が他国へ移民させる政策を積極的に行なっていたらしいのだ。驚きではあるが1969年生まれの俺には何とも体に入ってくる史実ではない。その「何とも体感できない」という違和感を一回り年下の1981年生まれの寺尾紗穂はより感じて、その当事者たちに会いに行って確認するという行動を起こしたんだろう。そこが素敵だ。

 かく言う俺も、親父の仕事の都合で幼少期に3年近くフィリピンに住んでいたことがある。1978-80年に、フィリピンの、しかもレイテ島と言う太平洋戦争の激戦区だ。俺の記憶でも「ここは日本人が破壊した教会だよ」と言われた場所があったり、マッカーサー上陸記念公演があったり、でも日本人が慰問に訪れつついろんなことをしてくれて助かってるという話を聞いたりと色々あった。俺がもし寺尾紗穂並みの行動力があるのなら、きっと今すぐレイテ島に行って色々と戦争の痕跡を訪ね、生存者に色々と話を聞いて回るんだろうな。俺の記憶でも、日本語を喋れるフィリピン人の爺さん婆さんとかいた気がするし、何なら混血児な方もいるかもしれないしね。 

 駄文になってしまったけど、寺尾紗穂の書籍に伏流するのは「健在なうちに直接会いに行って聞いておかねば消えてしまう」ものを書き留めていこうとする責任感だ。全くもってテレビ的でないもの、すなわち現代の資本主義ビジネスに乗っかりにくいものの中にある大事なものはもっと沢山あるはずだと。漠然とした違和感解消のため、漠然とした興味に対する行動力を、こうした書籍がきっかけで一人でも二人でも多くの人に受け継がれればいいなと思う読了感でした。

 あぁ、Facebookで繋がっている、今でも地元レイテ島にいる音楽の先生に連絡ぐらいはしてみようかな。いつも俺がピアノを弾いてる動画に反応くれるからな。俺の行動力は、、、それぐらいかなぁ、、、またフィリピンも行ってみたいな、、、


15年前にフィリピンのレイテ島に行ったときに恩師に再会


日本人が破壊した教会と説明されたものは今でもこうしてそのまま戦争の傷跡として残されてました

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