大ヒット作は閉鎖的・インディ作の方がグローバル?
街の本屋の入り口で平積みされているような本も時々読むようにしている。俺にとってのJ-Popリサーチのような気分で。
で、まず最近「正欲」朝井リョウ著、を読んでみたんだが、、、これがまた批評しずらい小説で、、、
なにせLGBTQに引っかからない、特殊性欲な人たちを軸にしていて、そんな人たちからすると昨今のLGBT(Q)法に引っかからない自分達は差別(区別)されているような虚無感とともに生きていて、、、みたいな設定で、、、
というだけで「ここがどう」「あれがどう」という批評を拒絶してるような小説で、読んでいて苦しいだけだった。(と書くこともある種の棘があるかもしれなくてドキドキさせられる)
でもこうした
「被害者・弱者の立場に立って記されたもの」
というのは今は拍手喝采、少なくとも帯にあるように本屋大賞的なとこには引っかかる、つまりチャートにのぼるほど売れるものとなる。実際J-Popにも「苦しさ」「悲しさ」「思いが届かない」と歌ったものはウケがいいしね。(あ、そのように記すことにも棘を感じる人がいるか、、、)
なので、内容のことではなく、視点・切り口が好みでない、という批評しか出来ない小説だった。(一応ちゃんと読了しましたよ)
*****
一方、本のセレクトショップで購入した、「オフショア」という個人出版の本の中の一編「シルクロードサンドストーム」(紅坂紫 著)をその後たまたま読んだんだけど、それは凄くよかった。
それもまた、「LGBTQ」とはまた違う性癖を持った人たちの物語なんだけれど、サラっとしていて、「温室=シティ」を離れて自分達のようなはぐれ者たちの憩いの宿、それもシルクロードの砂嵐の中に佇む宿を舞台にした設定で、すごく素敵な物語だと思った。
実際に動けるかどうかはさておき、せめて文学の中でだけでも、自らの特殊な性癖を肯定できるような場所と物語を体験する機会は与えられるべきだと。文学にはそういう力があるはずなのだ、と感じさせられるものだった。
ただ、どうにもJ-Pop的に平積みされているものは、苦しい現実をどれだけどのように苦しいかの描写から始まる話ばかりで、しかも日本の田舎のしがらみのある暮らし(それも悪い方にしか捉えない傾向にある)と、せいぜいYouTubeなどのweb~SNSを絡める話だけで終わりがち。多数売れているものほど閉鎖的だったりするのだ。
でもJ-Popとは到底言い難い、個人出版のこんな本に収められたいくつもの短編は、視野が広くて、本当の意味のダイバーシティーを感じるものばかりだった。インディなのにグローバル。そこがいい。
ビジネス的にグローバルに展開しようとするとつまり大ヒット商品を作ろうとすると閉鎖的にならざるを得ない時代ということなのだろうか?ビリーアイリッシュなどをベッドルームポップと言うわけだし。
視野の広い、時代を俯瞰できているような作品の方が、逆にインディ的な商品になってしまう時代なのか。
先進国の中で日本は最も勉強しない国になってしまったと言う統計も最近見たけれど、やっぱ「学び」は大切だよ。もう召されてる方の本からも本当に「今必要なもの」への示唆を感じれたりするしね。
あ、本を読まないぐらいが今は格好いいのか?じゃあ仕方ないねぇ、、、
理系出身の俺だけど、本はこれからも一生読み続けるよ
レコードを一生掘り続けるのと同じくね
誰のためでもなく、まず自分のために
時に人の役に立てれば、ラッキーぐらいな心持ちでこれからも
よろしければサポートをお願いします!収益はSWING-Oの更なる取材費に使わせていただきます!