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「不条理貯金」

 世の中は不条理に満ちている。分かり合えたり分かり合えなかったりな毎日。同じ言葉でも相手が傷つく場合もあれば、笑う場合もある。自分が傷ついたとしても、相手に悪気が全くない場合もある。俺自身も言葉を通して沢山傷ついてきたし、自覚できた範囲でも多くの人を傷つけてきてしまったし、自覚してない中でもきっと多くの人を傷つけて来たことだろう。

今日は俺の体に刻み込まれた、俺が傷ついた言葉たちを記したいと思っている。ただ、その言葉を発した人を断罪したくて記すのでは、ない。もちろんその時は打ちひしがれたりしたものの、その言葉たちを体に刻み込んで来たことで今の俺がある。前向きに捉えるならば、傷は自分を見直すきっかけになる。その、自分の身体から流れ出た血を見ることで、自分の身体にどのような血が流れていたかを確認できるのだ。自分を確認できるのだ。実際、素敵な人には必ず傷痕があるもの。2022年現在だと「**ハラスメント」と呼ばれそうなその言葉たちにはむしろ感謝をしているくらいだ。そんな、不条理な傷を沢山心に貯めてきたからこその今の俺なのだ。それを俺は「不条理貯金」と呼んでいる。

音楽家な俺らしい表現に翻訳するならば、それが「ブルース」なのかもしれない。傷痕をそのまま他人に見せるならば悲しい短調な音楽になるかもしれないが、ブルースはそうはしない。長調と単調の間の音をブルーノートと呼ぶように、まさに明るい曲・悲しい曲どちらとも言えない所に着地させるのだ。「グレーゾーン」と言う言い方でもいいかもしれない。その、白でも黒でもない領域は実は世の中のほとんどなのだ。白か黒かではなく、その広いグレーゾーン領域の中のどこに自分はいるのか?を知るには「不条理貯金」を貯める必要がある。「不条理貯金」が溜まってきて初めてブルース、グレーゾーンを知覚できるようになるのだから。

この貯金「不条理貯金」はあまり貯めないで生きていけた方がひょっとしたら幸せなのかもしれない。でもこのような「ブルース」や「グレーゾーン」のような解釈で世の中を見渡せたら、人生がカラフルになる、視野が広がる。なんなら人生の次の扉を開くきっかけになる、かもしれない。(次の扉を開く必要性の有無は人それぞれだろうけれど) 。もちろん「何かを知る」ことは「何を知らないかを知る」こととセットだし、もちろん「言葉」は諸刃の剣。これまでも、これからも危険を孕んでいることに違いないんだが。

何度も言っておくけれど決して誰かを断罪したい訳ではない。その証拠に、実名は基本的には伏せることにした。一部バンド名だけは固有名詞を使わせてもらったけれど、それは、そのバンドがもうすっかり世の中から忘れられたバンドであること、沢山いたメンバーと今でも繋がっているのが数人しかいないこと、しかもその数人以外はSNSもろくにやってなさそうで連絡が取れないので、再会するきっかけになれば面白いと思って記させてもらった。

【君はピアノは上手いかもしれないが、存在感がないからね、プロとしてはやっていけないよ】

 その言葉は、日差しがきつい暑い夏の日1997年、プロデューサーT宅にバンドメンバーやスタッフが集まってバーベキューをしている時に、プロデューサーTに言われた。その時俺は28歳、長いバンド名の、ダンサーもいる大所帯バンドをやっていた。メジャーデビュー出来ることは決まっていた。俺はそのバンドの立ち上げメンバーで、キーボードと曲作りを頑張っていて、「やっとプロとしてやっていけそうだ」と思っていたところだった。その日はバンドメンバーだけでなく、スタッフとの決起集会的な意味合いもあった。そんなパーティー中に言われたのだ。

「君はプロとしてはやっていけないよ。オーラも全くないしね。」

そんなことをニヤニヤ笑いながら言うプロデューサーT。そして横にいたスタイリストの女性も

「そうね、彼は厳しいかもね」

一体どう反応するのが正解だったのだろう?俺は良かれ悪かれ喧嘩っ早くない。どれだけ酷いことを言われても、その酷さに気付くのは一人で帰宅する途中だったりする。この時もその酷さに深く傷つくのは帰宅する途中だった。

Kinki Kidsが「硝子の少年」で鮮烈なデビューを飾った頃の話だ。俺は22歳でメジャーのレコード会社のオーディションに受かったものの、そのバンドPalladiumはデビューまで至れず、解散。そのバンドの活動期に収入もないのに機材を買いまくったせいで借金をしてしまい、返済に苦しんでいた。そんな中、プロデューサーTからの誘いがあった。

「新しいバンドを立ち上げるんだが、立ち上げメンバーにならないか?君は曲も書けるだろ?」

もちろんいきなり給料の出る話ではないが、「俺はもう音楽で食ってはいけないのか?」と自問自答する日々に差し伸べられた希望。俺なりにではあるが、本気で曲を書き、自分の将来を左右する大事な局面だと思って日々過ごしていた。そんな中、俺に投げかけられた言葉、

「君はプロとしては、やっていけないよ」

 これは一体どう捉えればいいんだろう?地下鉄東西線に乗って、家賃6万の木造アパートの自宅のある千葉に帰る途中、悶々と考えることになる。明日はウェンディーズバーガーでアルバイトの予定だが、このまま帰宅してしまうと寝付きが悪いに決まっている。飲みに寄ってから帰ろう。自宅を通り過ぎて東船橋駅に着く。時折ピアノを弾かせてもらっていた店、バークレーパーキンスというバーに行くことにした。

 顔馴染みのマスターが「いらっしゃい」と行儀良く挨拶をする。

「一人かい?ちょっと混んでるからカウンターで飲んでもらっていいかな?」

 俺は生ビールを頼んで一人でカウンターに佇む。そして今日の出来事を反芻する。

「俺は立ち上げメンバーだよな?少なくとも音楽的な評価をしてくれた上でメンバーになってるはずなんだが、あんなことを言われるのは一体どういうことだろう?つまり、ピン(一人)じゃやっていけないような奴だからこのバンドをちゃんと頑張れよという激励なんだろうか?それとも、そんな存在感のない奴は、いてもしょうがないからいつクビになっても文句言うなよってことだろうか?」

 そんな、答えの出ない自問自答を繰り返してるうちに終電の時間になってしまったので、会計して帰る。4,5杯は飲んだが全く酔っていない。酔えない。その日はあまり寝れなかったことは言うまでもない。

 そして夏も終わりに近づいた9月初旬、プロデューサーTから連絡が来る。

「Kinki Kidsの”硝子の少年”知ってるだろ?ああ言う曲を書いてくれ」

俺は戸惑う。だってこのバンドはラテンやファンクをやるお祭りバンドってコンセプトだったのに。一体どういうことなんだろう?意図が全く分からない。そして正直に、俺なりに言葉を選んで答えた

「すんません、意図がよく理解できなくて。このバンドのコンセプトは”ラテンやファンクをやるお祭りバンド”でしたよね?そんなバンドで”硝子の少年”のような曲をやる意図はなんでしょうか?どの程度寄せるべきなんでしょうか?」

「馬鹿野郎!つべこべ言わず、俺が書けって言ったら書けばいいんだよ」

「わ、分かりました。精一杯頑張ってみます」

 その日から3,4日ほどかけて、俺なりに解釈した”硝子の少年”っぽい曲を急いで書いた。アレンジは少しラテンフレーバーを入れたりして、他のメンバーにも事前に聴かせて、手応えを感じてからプロデューサーに提出した。この曲は間に合わないかもしれないが、レコーディングが迫っている。なにせ来月10月はジャマイカレコーディングなのだ。レゲエレジェンドなサードワールドの人がプロデュースしてくれると言う話だ。しかも初めての海外レコーディング。まだまだ準備が大変だがスケジュールは決まっている。大変さよりもワクワクの方が勝っていた。こんな苦労は、何も予定がない状況と比べたら苦労でもなんでもない、と自分に言い聞かせていた。

 プロデューサーに提出してから数日が経った。ジャマイカに行くために28歳にして初めて作ったパスポートも無事届いた。そして、プロデューサーからその電話があった。

「君をクビにすることになった。メンバーとも話した。以上。」

 なんと答えたか覚えていない。多分、「もっと頑張るんで、続けさせてください」とか言ったんだと思うが、「もう決まったんだよ」と言われた。もう決まったんだ。。。

 まさに崖から突き落とされた気分とはこのこと。急いで他メンバーに連絡してもよそよそしい。誰もなんとも言ってくれないのだ。なにせ、プロデューサーに集められたメンバーで構成されている訳だから、全ての権限はプロデューサーにある。俺を擁護しようとしたりすると自らもクビになりかねないってことなんだろう。ここ一二年頑張ってきたことは全て消えてしまった。しかも俺が書いた曲でレコーディングする予定だった曲も「いらないから返すよ」ってことで、楽曲すらもクビになってしまったのだ。バーで一人自問自答していた「頑張れってこと?クビにしても文句言うなよってこと?」の答えは後者だったのだ。

 そのバンド「熱風音楽市場 魅惑の東京サロン」はデビューこそしたものの幸い?大して売れずに、アルバム2枚リリースしてシーンから消えていったことは、後から知った。気づかなかった理由は、CDショップに行っても和物コーナーには近づかなかったから。だって見たくもないよね、自分をクビにしたバンドのCDなんて。

 そんなスタート地点(マイナス地点?)に戻されながらも、就職する気とかが全くない俺は、再び週5日のバイトを始めながら、これからの人生を自問自答しながらも、音楽は続けることにした。

【君はそんなにピアノがすごい訳じゃない。君ぐらいはいくらでもいる。でも音楽は詳しいし、表に立つのは諦めてスタッフにならないか?】

 それから数年たち、20世紀末に新しく出会ったプロデューサーAといくつか仕事をしているうちに言われた言葉だ。新宿三丁目の行きつけのバーでそのプロデューサーAと出会い、ブラジリアンハウスDJの音源制作を手伝ったり、女性ボーカルのプロジェクトを手伝ったりしている中でボソッと言われた。実際プロデューサーAは当時仕事が数多あり、大手事務所から独立したところでもあり、スタッフを探していたんだろう。俺が30歳になる頃の話だ。

 当時俺はまだアルバイト収入を軸にした生活をしていた。派遣社員という形で週5日9-17時でコールセンター勤務。早くそんな生活から脱出したいと思っていた中でのその言葉は、その時の俺にとってありがたくは全く思えず、むしろ傷ついた。

「色々仕事をくれていたのは、俺の演奏を買ってくれてたからじゃないのか?俺のアレンジ力を買ってくれてたからじゃないのか?表に立つのは諦めろってどういうことなんだ?

 もちろんプロデューサーAに悪気は全くなかった言葉だろう。元々ミュージシャンだった人がスタッフになっていくケースは数多あるし、表に立つ熱意がそれでも無くならなかった人は、スタッフを経由しつつもデビューに辿り着くというケースも稀だけど、ある。実際、俺が在籍した(中退しましたが)千葉大学の音楽サークルの先輩はまずレコード会社に就職したが、シンガーソングライターの夢を諦めきれず、そこで広げた人脈を元にまさかのメジャーデビューに辿りついたという人もいた。(残念ながら売れなかったけれど)

 そんなケースを知っていながらも、俺はその申し出を断った。「考えときます」と言いつつ、その後その返答をしなかったというのが正しいけれど。

 漠然とだけれど、俺はそのプロデューサーAに対して、その、筋の通っていないハリボテ感を感じていたからだと思う。昨日まで「いいねぇ君のピアノ」と言ってくれてたはずなのに、次の日には「君のピアノはそんなすごい訳じゃない」と言う。プロデューサーAの意図はさておき、俺の中ではその「筋通ってないじゃないか!」の方が引っかかった。そもそもブルース~ニューオーリンズピアノを評価されて関わり出したんだが、頑張って取得したプラジリアンな演奏もそこそこ評判になり、ピアニストとしての仕事がこれから増えてくれるかな?と思っていた頃だったから余計だろう。

 そんなことがありつつも、プロデューサーAとはその後も色々と関わり続けた。そして俺がizanamiと言うバンドを2000年にスタートさせて、順調に話題になってきた頃、たまたま一緒に飲んでいた時には俺にこんなことを言ってきた。

「izanamiいいね。俺の方でマネジメントしたいと思ってるけど、どう?」

これは即座に、でも丁重に断らせていただいた。そして先の言葉をしっかりと覚えていた俺はこう答えた。

「だってAさん、”君は表に立つのは諦めて、スタッフをやった方がいい”みたいなことを以前俺に言ってたじゃないですか?」

「え、そんなこと言ったっけ?」

覚えていなかった。まぁでもそんなものかもしれない。俺が傷ついた「プレーヤーを諦めてスタッフになれば?」と言う言葉に悪気は全くなかったってことだ。その場その場で考えるタイプの人で、悪い人じゃない人も世間には間違いなくいる。そう言う人と組んで上手く行く人もいるだろう。俺はそんなAさんとは仕事で絡むのはウェルカムだけど、マネージメントをしてもらうほど近づくには不安だったってことだ。単発仕事ならウェルカムだけど、長期的に関わるには不安だったってことだ。とはいえ、Aさんには仕事では沢山沢山お世話になったし、何より沢山いろんな飲み屋やお酒も教えていただいた。俺の酒人生には間違いなく何ページも出てくる人。今でも感謝の方が大きい人です。

【君はミリオンセラーを出したことがあるんだっけ?】

 月日が流れ、2006年頃の話。30代半ばになってやっと俺も音楽を生業にして生きていけるようになった。プロデュース仕事もいくつかいただいたり、ツアー仕事も来たりしていた頃の話。

 izanamiと言う俺がリーダーのバンドも解散することになり、「誰かいいボーカルいないかな?」と色んなライブをリサーチしに行っていた時に当時まだ20代前半のシンガーHに出会う。彼女は事務所が既についていたが、活動はどちらかと言えば苦労していたようだった。それから色々と相談に乗っているうちに、無事、違う事務所に移ることを手助けすることが出来た。曲も色々と一緒に書いたし、ライブも重ねていくうちに、彼女はメジャーデビューが決まる。

 彼女のNeo Soulな音楽性を活かしつつのメジャーデビューが出来たら、ブームが去ってしまっていたDevaブームの新第二世代ムーヴメント、未だ来たことがないJapanese Neo Soulなムーヴメントが起こせるかもしれない。そう思った俺は、頑張ってシンガーHの方向性を提案する企画書を記して、新しい事務所のプロデューサーOと連絡を取り、ミーティングをすることになった。

 指定された時間に事務所に入る。ミーティングルームで待つ。プロデューサーO氏が現れる。軽く雑談をしてから本題へ

「シンガーHの今後は自分も期待してるんで、こういう企画書を作ってみたので、目を通してもらえますか?」

すると、プロデューサーO氏は企画書を手に取ったものの、目も通さずにこう答えたのだ

「君はミリオンセラーを出したことがあるんだっけ?」

 唖然とする、「そんな返し方があるとは!」とビックリしつつも、「無いですけど、内容が大事じゃないですか?」と答えるも、結論はこうだった。

プロデューサーO氏はミリオンセラーを何枚かプロデュースしたことがあるが、俺はない。よって、プロデューサーOは俺のアイデアを聞く理由がない、と。

 今だったら「え、でもOさんがミリオンセラーをプロデュースしたのって10年以上前じゃないですか?」と即答できるんだが、、、その時は唖然で終わってしまった。もちろん、企画書は一読するどころか、そのまま「はいっ」と俺に返されたのであった。

 シンガーHはその後メジャーデビューするもパッとせず、逆にメジャー契約が切れて、結果その事務所も離れて、、、と言うところから今につながる素晴らしいキャリアが始まった。そのプロデューサーO?あ、プロデューサーOは「音楽が金にならない時代なった」と踏んだのか、その後とっとと事務所自体をたたみ、飲食店をやったり、音楽と無関係なビジネスを今はやっているらしいです。

【音楽愛かビジネスか】

 敢えて総論的なことでまとめるならば、今回紹介したひどい言葉たちは、音楽がビッグビジネスになっていた時代だからこそ生じた言葉だと言える。そんな時代は「音楽愛」なんて放っておいても良かったのだ。ビジネス~マーケティング下手な俺は唯一自信を持っていたのが「音楽愛」。そう言うと一見格好いいが、「そんなのじゃ売れるわけがない」と言う、売る側の意見を無視してしまいかねない部分も俺は持っていたと言うこと。ビジネス目線だと、若い頃の俺は商品価値があまりなかったってことだ。だから「音楽で食う」と言う目標にはえらく遠回りをしてしまった。ビジネス~商売目線だとえらく遠回りをしてしまった。だが、側から見て遠回りでも、俺からしたら「音楽愛」真っ直ぐな一本道。正しく言い換えれば「音楽依存症」人生。時間はかかったが、その音楽愛を共有できる仲間と多数出会ってきたことでかろうじて「やりたいこと」と生活の両立が出来るようになったんだと思う。

 でも、でもだ。そんな「ひどい言葉たち」「ひどい対応」は今も変わらず俺には降り注いでいる。決して過去形ではない。「リスペクト」「感謝してる」と言っておきながらそれかよ!みたいなことはもう日常。(逆に言うと俺もしてしまっている可能性は否定できないが、、、)そんな訳でこれからも「不条理貯金」は使い果たすことなく、一定額キープしながらの人生なんだろう。でも流動性があるだけ幸せかもしれない。少なくとも淀んではいない。流れがあればどうにかなるのだ。流れが無ければ作ればいい。

 そしてそのお陰で、千葉で飲んでいた頃は酒はビールでもなんでも良かったが、最近はビール一つとってもたくさんの味を知ることが出来た。そのお陰で、「今日はこう言うのを飲みたい」と明確に出来るくらいにはなった。今日はこんな話をした後だから、うん、アイルランドの黒ビール、ギネスから行こうか。あのギネス記録の名前の元ね。あの苦みを旨みと思えるようになったのは、沢山の不条理貯金を貯めて、使ってきたからだろう。あの、大麦が焦げた味を旨いと思えるようになるには、それなりの苦い思いを経験してこないといけない大人の味だ。そう思うと「不条理貯金」悪くないでしょ?「苦味は旨味」「ピンチをチャンスに」みたいに前向きで。

 さて久々にギネスビールを飲みに新宿西口のバガボンドにでも行ってみるか。あそこは確かギネスビールの生が飲めるところだった。しかもピアノがあって毎晩生演奏があって、、、あぁこの店でも苦い思い出があったなぁ。


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